時間の三つの、いや四つの在り方

時間において現在というものが成り立つ条件とは何だろう。まず瞬間の反復。次に、それを裏支えする持続。三つめがそれらを瞬間において観照するもの。それによって、今、今、今という現在の反復が成り立ち、時間が流れる現在として意識化される。。これがドゥルーズのいう第一の時間のイメージ。

次に記憶が成立するためには、こうした流れる現在の諸瞬間が過去として一般化されなければならない。つまり、あのとき、かのときというかたちで古い現在の序列が見えなければならないということ。このためには第一の時間自体を観照する別の持続が必要になる。これがおそらく第二の時間のイメージ。

この第二の持続が結果的に現在を現在として反省させ、「今は現在だ」という形で表象化されるということなのだろう。この第一と第二の時間は円環を描きグルグル回っている。それがドゥルーズのいうクロノスの時間。この時間の環は現象の変化と決して切り離すことのできない有機的時間と言える。

ドゥルーズは第一の時間を受動的総合、第二の時間を能動的総合としているが、構造的に見ると、これらはヌーソロジーでいうところの感性的時間と思形的時間に対応していそうだ。幼児期(7歳ぐらいまで)の時間感覚と学童期(13歳ぐらいまで)の時間感覚。ここから時間が現象とは乖離し始める。?

ドゥルーズの議論だと、この後、第三の時間の総合としての「空虚な時間の形式」が登場するのたが、おそらくこれが直線的な空間化した時間(ベルクソン)ではないかと思う。しかし、なぜ、直線化してクロノスの蝶番が外れてしまうのか。。おそらく、これはフーコーがいう主体の二重化に関係している。

ポスト構造主義者たちはまだ明確にはしていないが、自己と他者間のクロノス的時間の構造はその構成が反転していると考えられる。近代的な主体の回路が「他者の他者」として自我を形成することだと考えれば、クロノス的時間が持った凹凸回路は相殺され、平板的な時間が現れることになる。

これはおそらく大地から垂直に立ち上がっている時間ではないかと感じている。星々の巡りとともに地上を覆っていた円環的時間はここで解体され、宇宙空間の無限の深みに向けての空虚な時間が空虚な「我」とともに出現してくる。しかし、この時間の出現はドゥルーズに拠れば「回帰」の予兆である。

おそらく、わたしたちは第四の時間というものを発明しなくてはならない。それがこれから新しく変身を遂げていく「奥行き」ということになるのだろう。記憶の女神ムネモシュネはそのときゼウスと一体になる。