天使たちの出現を待ち望んで

グノーシス的思考のみが本来、思考と呼べるものだと思っているのだけど、人間の歴史においてここまでこの思考の系譜が隠蔽され、粉々に砕け散ってしまっているのは何故なのだろうといつも思う。

グノーシスに想いを馳せる者はいつの時代にも異端の烙印を押され、ときに狂人と呼ばれる。しかし正気であることがもし無自覚に法を信じる者のことを指すのだとすれば、正気には思考する力などない。進入禁止の標識に素直に従う限り、標識の向こうを知ることは永遠にできないということ。

グノーシスというのは光の二項論理における無限の展開とも言える。一方に光の贈与があり、他方に光の受容がある。光の受容者はいかにして光の贈与者へと生成していくことができるのか、これがグノーシス的思考が見つめつづけている問題だ。

受容者としての光とは当然のことながら「受肉したロゴス」としての物質的肉体のことを言うのだろうが、ここにはロゴスの完成点と肉体という開始点が重なり合って存在している。キリスト教徒の言う「インマヌエル(われら神と共にいる)」もまたこの重合を根拠としているのだろう。

同じ場所を占める神と人。しかし、その存在の在り方は当然のことながら大きく違っている。それはたぶんデカルトがいう思う我とある我以上に違っている。グノーシスの思考はこの同じ場所を占めながら遥か無限の彼方に消え去ってしまった神との距離を意識するところから始まる。

そこに距離が現れるからには、そこには媒介がなくてはならない。その媒介者たちが聖霊と呼ばれたり天使と呼ばれたりするわけだ。だから、聖霊や天使は神と人を媒介する流動のロゴスに関わる。グノーシスはこの流動性を巡って思考するのだ。

プラトン的に言えば、この存在のアイオーン的円環を巡っての忘却と想起(アナムネーシス)。ルーリアカバラ的に言えばこの生命の樹を巡っての容器の破壊と再生。いずれもグノーシスの表現形式である。

こうした思考を持つ者たちを、異端者や狂人へ仕立て上げ、ときに抹殺までしてきた残忍な精神性を僕ら現代人もまた多かれ少なかれ受け継いできているということ。また、それが人間が正気と呼ぶものの体制であり続けてきたということ。このことを今一度、自覚する必要があるのではないかと思う。

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