ヌースレクチャー#3のためのドゥルーズ哲学の予備知識——その1

1.ドゥルーズのいう「差異」って何?
 
次回のヌースレクチャーではドゥルーズ哲学とヌーソロジーの擦り合わせを行っていこうと思っています。レクチャーのための準備作業ということで、今日から約2ケ月間の間、ドゥルーズ哲学とヌーソロジーの共通点について、いろいろとつぶやいていこうと思います。
 
ドゥルーズ哲学は別名、「差異の哲学」とも呼ばれているのですが、最初に「?」となるのは、この「差異」という言葉の意味です。おそらく、ネットで調べても、この「差異」に関しては、いろいろな人がいろいろなことを言ってるので、混乱を起こすと思います。
 
この差異は普通、僕らが「これとこれは色が違うね」とか「君と僕は考え方が違うね」とか言うときの、「違い」のことなんかでは決してないので、まずはそこをしっかり押さえておいてください。80年代のイケイケ資本主義の時期に「差異の戯れ」とかいう言葉が流行ったので、それとゴッチャになってる。このへんは紹介のされ方にも問題があったかも。。
 
ドゥルーズのいう「差異」とは、一言でいうと「存在と生成の差異」なんだね。「あること」と「なること」の差異。抽象的で分かりにくいけど、誤解を恐れずにキリスト教的言い回しで言えば、「創造されたものの世界」と「創造するものの世界」の差異のこと。つまり被造物の世界と創造者の世界との差異なのね。
 
で、ドゥルーズはこの存在と生成の差異を見極めるためのとっかかりを、まずはベルクソンの持続概念の中に見たの。創造された世界では時間が存在として君臨しているのだけど、創造する世界では純粋持続が別の根源的時間の中で生成の運動を行っていて、その持続の多様な活動の中から存在が出現してきたのだと。要は、存在より生成を重要視するわけ。
 
存在が支配する世界では、事物はすべて存在するものであって、なるもの、つまり、生成にはなり得ない。今の人間の意識の世界は、こうした存在が持った一義性に支配されていて、すべてが、「何々がある」とか、「何々である」とか、この「ある」という、英語で言えばBe動詞によって支配されているわけだね。
 
世界のこうした現前の仕方の中で活動する人間の意識状態のことを、ドゥルーズは「現働的なもの」と呼び、一方、こうした存在としての活動を生み出した生成の世界はこの「現働的なもの」の裏側で「潜在的なもの」として働いている、とします。ドゥルーズのいう差異とは、この両者の間にある差異のことです。いや、より正確に言えば、〈現働的なもの-潜在的もの〉というように、現働的なものが表に出て潜在的なものが裏に回った世界と、〈潜在的なもの-現働的なもの〉というように、潜在的なものの方が表に出て現働的なものが裏に回った世界との差異です。
 
ドゥルーズ哲学にはこうした「差異」に対して「同一性」という言葉が頻繁に顔を出します。この同一性とは、さっきいった「存在」とほぽ同じ意味と考えていいです。人間の世界が成立している根拠を与えているもののことであり、ドゥルーズはここに神、自我、表象の連携を見ます。
 
ですから、ドゥルーズにとって「差異化する」とは、神、自我、表象を逃れ、人間の思考に巣食うあらゆる同一性から逃れている「潜在的なもの」の次元へと、つまり「なること」の次元に向かって、人間を人間ならざるものへと解放していくことを意味しています。——今日はこのへんで。

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