沈黙の響きを震わせるカタチの世界へ

ヌーソロジーの分かりにくさは「あるもの=客体」や「いるもの=主体」で世界を考えないというところにある。じゃあ、何を通して世界について思考しようというのか。それは―「なるもの」を通して―ということになるだろう。
 
「あるもの」とは結果の世界。「いるもの」とは「あるもの」がその原因へと方向づけられたところに生まれるもの。「なるもの」とは原因の世界。そして、この「なるもの」から「あらしめるもの」と「いらしめるもの」が生じ、それらの働きによって、「あるもの」と「いるもの」が送り出されてくる。
 
空間的に言うなら、「あるもの」とは幅の世界。「いるもの」とは幅化した奥行きの世界。「なるもの」とは幅を拭い去った純粋な奥行きの世界。奥行きは自然が精神化していくためのポータル(入口)である。カッコ悪い写真だが、気持ちは伝わるだろう(笑)
 
「なること」としての奥行きは、散乱した光を拾い集めていく。この光の回収作業によって言葉は砕け散る。ハイデガーが言うように、与えられた言葉を沈黙の中に砕け散らせること。そこに、「なること」としての別の生き物が立ち現れる。そうやって、空間にカタチが生まれ出る。
 
このカタチについては、思想史の中で実体形相や共通本性など、いろいろな言われ方をしてきた。いずれにせよ、空間が精神化するときには、時間は結晶化しなければならない。
 
※下写真はそれぞれ覚醒期”レムリア”シンポジウム 『記憶』でのショット。参加者の天海ヒロ氏と稲田明子さんによる撮影です。

シンポジウム「記憶」1
シンポジウム「記憶」2