5月 12 2017
「ある」「いる」「なる」のトリアーデ
ある・いる・なるの関係を分かりやすく図にしました(下図参照)。そのまま意識の反転の経路になっているのでヌーシストは要チェック!!
この図で言うと、現在のヌーソロジーは「あるもの」と「いるもの」の間で反復している意識に「なるもの」へのルートを開く作業を行っています。
科学的思考は基本的に「あるもの」だけの世界をベースにしています。哲学的思考は「あるもの」と「いるもの」の相関関係をベースにしていますす。一神教的思考は「あること」と「あるもの」の結合関係をベースにしています。
このトリアーデは基本的にはグノーシス的思考のフレームですが、この関係を空間認識の幾何学を通じて具体的に論じていくのがヌーソロジーだと考えられて結構です。
一点、重要なことは、二つの自己が「なること」へと向かうとき、自己側から見た他者は「あること」へと向かうということ。それがヌーソロジーが変換と転換と呼ぶものの関係です。
「なるもの」の讃歌を歌い上げたニーチェ。「いること」と「あること」の差異を明確にしたベルクソン、「いること」から「なること」を通して「あること」と「あるもの」の一致を目指したハイデガー。そして、この運動を自然そのものと結びつけようとしたドゥルーズ。
こうした哲学者たちの営為にもかかわらず、世界は未だに「あるもの」の中に閉ざされています。それどころか「いるもの」からさえも離れようとしている。これはかなりデモーニッシュな状況と言っていいと思います。
さてさて、どうなりますことやら。
6月 2 2017
新しい場所論を!!―無頭人たちが生きる場所
目の前の奥行きには、「収縮としての奥行き」と「弛緩としての奥行き」が重なり合って存在させられています。例のバイスペイシアル認識というやつですね。前者が虚軸で、ベルクソンの言葉でいうなら純粋持続(無意思的記憶)の役割を担っており、後者が実軸で、こちらは純粋知覚(瞬間的知覚)の役割として働いています。
今のわたしたちは、前者について全く無自覚で、後者だけで世界を見ているということが分かります。虚軸が真横にずらされて、奥行き方向に実軸=幅しか感じ取ることしかしていません。「他者視点から世界を見る」という他者-構造に空間認識が支配されて、自己のアイデンティティを保証している持続空間が見えなくなって、無自覚のまま無意識的に働いているわけです。
これからの時代、この是正が始まっていくと思います。世界の土台への沈み込み=巻き込みの方に意識が方向性を変えていくということですね。この反転は、人間をマクロ空間に生きる物質的生き物から、ミクロ空間に生きる霊的生き物へと変態させ、物質世界を内部側から見る知覚(正確には超感覚的知覚)を発現させてきます。
幅認識で世界を構成している意識の組織化が経験的自我で、奥行き認識で世界を構成している意識の組織化が超越論的自我と考えるといいでしょう。後者の組織化が認識に浮上することにより、意識は相関主義が形作る円環から逃れその外部へと出て行きます。それがドゥルーズがいうところの「差異化」です。
もちろん、こうしたバイスぺイシアルな空間認識を達成することがすべてというわけではありません。重要なことは空間認識がそのような変化を見せ始めたときに、この差異化していく空間思考にどのような新しい空間感情が伝播してくるのか―。思考者はその共振に常に注意を払っていくことが重要です。
この世界認識の型(ヌーソロジーでは「トランスフォーマー型ゲシュタルト」と呼んでいますが)は、シュタイナー風にいうならば、イマジネーション認識の土台となるもののように思えます。人間の経験的自我が生み出すほとんどの意識的内容物が、時間と空間という感性における直観形式を土台にした培養物として生まれているように、この新しい世界認識の型は霊我(シュタイナーのいう高次の自我)における直観形式を決定づけ、その形式に合わせた新しい超感覚的な知覚的内容物を用意してくるのではないかと思っています。
その意味で言えば、トランスフォーマー型ゲシュタルトとは今までの時間と空間に変えて、無時間世界(持続空間)の中において、新しいトキとトコロを用意する場所論のようなものとも言えるのではないかと思っています。
素粒子とは、このトキトコロの場所が「響き(霊引き)」として存在させられているものであり、この「響き」を聞き取るところにわたしたちの意識が発生しているとも言えます。
そして、そのトキトコロの響きを追って、そこに響きの起源となっている「響かせているもの」の空間形態をトレースしていく純粋思考の力がそのまま元素体の生成へと繋がる仕組みになっているようです。そのトレースをケイ素体まで導くのが、OCOT情報がいうところの「シリウス」です。14のイデア空間です。
かなり、ブっ飛んだ話をしている自覚はあります(笑)。しかし、奥行きが見えてくれば、この話は単なるトンデモだけでは片付けられない、「ありうる」「ありうべき」話として聞こえてくるのではないかとも思っています。未だ誰も超越論的なものの在り処について明確に指し示した人はいないわけですから。
無頭人(アセフェル)のゲシュタルトが目撃する新しい場所。それを作れ、そうすれば、彼はやって来る―。フィールド・オブ・ドリームスのアレですね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 09_映画・テレビ • 0 • Tags: OCOT情報, シュタイナー, トランスフォーマー型ゲシュタルト, ドゥルーズ, ベルクソン, 奥行き