7月 13 2006
タブラ・ラサからの出発
最近、ヌース理論の難解さに拍車がかかって、とてもついて行けないという噂をあちこちで聞く。
う〜む。これは少しリセットするべきか。。
哲学や物理学の話を多用するのは、別にヌースを高尚な思想に仕立て上げたいからではない。長年温めてきているヌースの構造イメージを、より広範囲に様々なジャンルと連結させたいがためのわたしなりの格闘である。わたしの身勝手な直感から言えば、科学も哲学も宗教もオカルトも精神世界も、すべて、ある特異点で等化されると思っている。その特異点を巡る思考様式というものがあって、その中心に幾何学やトポロジーが位置すべきではないか、と思っているだけなのだ。もちろん、その思考は表象としての思考であってはならない。表象としての幾何学ならば、それは単にモデルの範疇を出ないからだ。イデアはモデルではない。例えば太陽のイデアなるものがあるとして、そのイデアを抉り出したものは、太陽そのものを作り出す。それがイデアを巡る創造的思考というものだ。
神が創造の始めにおいて行うことは、世界をタブラ・ラサに戻すことである。そして、そこから、最初の思考が一本の線を引く。いや、線を引く前に点を打つ。では、神にとってのその「点」とは何か?そうしたことが問題となるのが、イデアの思考である。わたしはそのヒントをプラトンに得た。
点とは見ることてである。そして、それは始まりのイデアである。
プラトンはそう言っている。そうやって、そこから見ることとしての点がどのような発展を遂げて行くのか——それを、類推し、あーでもない、こーでもないと試行錯誤しているのがヌースだ。
その格闘は見方によっては無様かもしれないし、初期のヌースの弾けるような初々しさを消し去っているのかもしれない。しかし、わたし個人の内部では、極めて観念的だった構造が、自らの身体知覚の中に統合され、しっかりと「概念化」されていきつつあることをしっかりと感じ取っている。ここでいう「概念化」とは、conceptの語源通り、「孕む」ということである。思考が何かを孕む、というのは、悟性と感性の一致においてしかあり得ない。悟性と感性が奇跡的な一点で融合すること。そこに概念の受胎がある。このとき、概念と事物は別物ではなくなる。何かをモデルとして思考するのではなく、その思考の線、運動、そのものが、生成の深部、基体と結合する。今の僕はそのことにしか興味がない。それが傍目には無味乾燥と思えても、それでいい。
前期ヌース(過去のヌース本三冊までの内容)は、まだ、モデルの段階にすぎなかった。例えば、顕著な例が、「主体の位置は無限遠点」にあるといったような内容を考えてみるといい。主体の位置が無限遠にある、と仮定して、意識のあり方を空間構造を通してモデル化することはできる。NCでも、何でもいいが、そこに点をポンと打って、∞の印をつけ、そこに反転した中心としての無限遠点を措定すれば、事足りることだ。主体はその位置から3次元を見ている。。。もっとも純化された観察の幾何学的な定義を「直交」というように仮定すれば、それはそれで筋が通るし、理屈の運びとしてはそれほど的外れなものでもないだろう。事実、前期ヌースの時期は、その無限遠は事実としてどこか?という問題にはあまり突っ込まず、ひたすら、モデル内部で派生してくる様々な位置の関係性にばかりこだわっていた。しかし、実態のないマーキングをいくつ施したところで、そうした理屈は、それなりの面白さはあるが、あまり意味があるように思えなくなっていった。3次元空間上の無限遠の位置を探すことが4次元認識の構築のために必要不可欠なことであれば、その実態を感官にとって何として現れているのかを指し示す必要がある。それがなければ、科学が描く原子モデルや構造主義が描く無意識構造のモデルと大した違いはない。
構造を外部から指し示すのではなく、自らが構造体へと変身すること。これがヌースの根本的立ち位置である。その意味で、最近は、無限遠(ψ3の位置)とは視野空間そのものである——と言い始めた。こうした言い回しはたぶん難解きわまりないのかもしれない。しかし、今のところ、それに変わる表現はみつからない。
絶対的な差異を持つ思考は、タブラ・ラサ(白紙)からしか始まらない。それは跳躍であり、離脱である。と言って、今までの主体がこの世界から離脱していくわけではない。今までの主体は自己同一性の中に閉じたままで別にかまわないのだ。絶対的な差異の思考は周回軌道を外れて行く衛星のように、たった一つで無限の創造空間にコースを変えて行く。それは、この世界とは別の領域で静かに脈動し出す新種の生命のようなものだ。僕らは、ついつい、今の社会的現実に役立つもの、今の生活的現実の問題を解決するもの、今の人間的現実の苦悩を解決できる方途が何かないものか、そこに興味の中心を持って考え続ける。しかし、創造的思考はおそらく、そういうものとは全く距離を置いたところで、独自にその領野を拡大していくはずである。それは諸問題を解決する方途なのではなく、結果的に、解決するものとなるだけなのだ。目的は創造、それのみ。一人の人間としてしかと大地に足をつけて生き、また、一人の天使として天空を駆け巡る。それでいいのだ。そこに一つも矛盾はない。
7月 21 2006
ヌースとオカルト
さて、オカルト批判と言えば、オカルト誹謗者たちはオカルトの意味もよく知らずに、あれはオカルトだぁ〜、洗脳だぁ〜、と言って、オカルトを前時代的な迷妄の産物であると決めつける。特に日本の場合はひどい。歴史を見れば明らかだが、オカルトは文化全般の担い手でもあった。ルネサンスから現在までの西欧文化はオカルトに支えられてきたと言っても過言ではない。
オカルトとは元来、ラテン語の「隠す」occulereから来ている。つまり、「隠された-知識」という意味である。なぜ、隠されねばならなかったのか。それは中世キリスト教社会が徹底してそれらの知識を迫害していたからである。隠さなければ殺される。だから、隠されてきた、のである。もし仏教が中世ヨーロッパに広がっていれば、仏教とてオカルトと呼ばれたはずだ。当時は、非正統キリスト教会的な言説であれば、それらはすべてオカルトなのである。
しかし、キリスト教会はなぜにああも神経質に異教を迫害したのか。答えは簡単だ。ウソが暴露される恐怖からだ。オカルトとして伝承されている知識の方が遥かに優れており,正統であるということ。教会はそれを百も承知していたはず、いや、いるはずである。
イエスの誕生日。聖母マリアの果たす役割。十字架上での磔形。十二使徒。復活。etc、キリスト教の教議にまつわる逸話は、そのほとんどがキリスト教出現以前の地中海、東方世界の伝統的な古代宗教から剽窃されている。つまり、バクリだ。イエス=キリスト自体はキリスト教信者ではないので、このパクリに一番気恥ずかしい思いをしているのは、たぶんイエスのはずである。イエスが、もし実在したのならば、彼は徹底したグノーシス主義者だったのではないかと思われる。グノーシス主義自体の裾野は広大で一言では言い表せないが、キリスト教発祥以前に、地中海-中近東地方に流布されていた古代宗教、ミトラ教、ゾロアスター教、マニ教、マンダ教等は、すべて、グノーシス的な色彩を持っていた。プラトンでさえ、広義の意味ではグノーシスと言っていい。
現代人が拠り所としている科学主義も「異端を迫害するのがお好き」という意味においては、ユダヤ-キリスト教の嫡子的性格を持っている。それゆえに、現在のオカルトの定義は、非正統キリスト教会的な言説から、非科学的な教説へと移行しているのだ。科学的な世界観のみを絶対とする唯物主義者たち(今では少なくなってきたのかもしれないが)は、現代のローマ・カトリック教会のようなものである。
さて・・・、ヌースはまぎれもないオカルトである。
ケルビムにはそれぞれ四つの顔があり、第一の顔はケルビムの顔、第二の顔は人間の顔、第三の顔は獅子の顔、そして第四の顔は鷲の顔であった。(「エゼキエル書」第10章14節)
まもなく、ケルビムが神の戦車とともに現れる。ケルビムは四枚の翼を持ち、上に二枚の羽を広げ、下の二枚の翼は自らの体を覆い隠す。広げられたものが精神で、覆い隠されたものが物質である。「等化」は二つの方向に分岐し、雄牛と獅子の対話のもとに、鷲に変身することを目指し、メルカバーとして天上高く舞い上がって行くことだろう。一方、「中和」は人間の名のもとに、上の二枚の翼の羽ばたきのの影として、飛翔の秘密を物質の中に隠蔽する。電場と磁場の関係を見れば、それらの関係が端的に表されていることが分かる。
今から、人間が持った知性は二つに分岐していく。一つは、来るべき楽園において知識の樹となり得ていくもの。そして、もう一つは生命の樹となり得ていくもの。この二つだ。どちらを選ぶのもそれぞれの自由だ。どちらが正でどちらが邪というものでもない。生命の樹のないところに知識の樹はないし、同時に知識の樹のないところに生命の樹もない。しかし、一つだけ言えることは、知識の樹では宇宙は創造されない、ということである。
——エヴァよ、再度、林檎を口にせよ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4 • Tags: カバラ, グノーシス, ゾロアスター, プラトン, ユダヤ, 生命の樹