3月 9 2005
NCジェネレーター
ヌースコーポレーションの方から3月1日に発売した新製品「ヌースマインド」のすべり出しが順調で、スタッフ全員大忙しの日々が続いている。買っていただいているヌース製品のユーザーの皆様に心より感謝。
わたしの会社は現在、マンションの一階と二階の2フロア、それと倉庫をニケ所、借りて回している。
1Fではスタッフが総勢4名、営業中心で活動している。
2Fはわたしのオフィスと広告制作室として使用。制作をやってくれていたさっちゃん(stuff Xのペンネームで素晴らしい文章を書いてくれていた彼)が、去年いっぱいで勇退したので、現在、上の階はぼつんと一人である。ちなみに、さっちゃんは、今年、作家デビューを飾る予定。作品が出たら皆さんにもお教えするつもりでいる。
というわけで、現在、我が社の広告制作はわたしひとりでやっているのだ。今日もS誌の広告を一つ制作。MOにデータを入れて送付した。明日は、サンプル商品用のリーフレットを作らなくてはいけない。明後日は………まぁ、DTPは好きだし、いちおう社長なのだから、何でもやらなくてはいけないのだが、今年に入って、ゆっくり、ヌースの空間に奥深く入り込んでいる時間があまりない。これは、わたしにとっては、セックスができないよりつらい。とにかく、当面の仕事を一日も早くやっつけて、理論関係の方も進展させていかなかいと。。。
そういえば、今日、ブログの内容について、はじめてメールが来た。その中で「NCジェネレーターって何」っていう質問があったので、簡単に説明しておこう。
NCジェネレーター………ヌースコンストラクションの位相形態を応用したコイルで作り出された回転電場ならびに回転磁場を共振させるための機械装置システムのこと。人間の無意識の運動を人間の自意識とは関係なく、自動的に反転せさることができる。ヌース理論からの予想としては反重力誘導装置の中核部品となるもの。
だいたいライヒのオルゴンボックスの21世紀版のようなものと考えておけばいい。果たして、一体どういう機械を組み立てれば、こうしたとんでもない内容のことが可能になるのか——そう思われる方がたくさんいらっしゃるに違いない。ライヒほど荒唐無稽ではない。何を考えているかだけでも書いておこう。
1、電子に対してライプニッツ的(モナド的)な捉え方をすること。 電子は点状粒子として描像されるものではなく、個体の知覚球面体(モナドの反転)として描像されるべきものである。その観点で、電流とは何かを考えること。
2、物理学者たちのいう「超対称性変換」をプラトン的に捉えるとすればそれは何か——。超対称性変換とは観察する力の総体と観察される力の総体の相互貫入であるということ。 重力とは洞窟のカベに影を押し付ける力と押し付けられた力の融合であるということ。この力の融合を解くには影を押し付けた力を自ら作り出すこと。そうすれば、その反作用が重力とは反対のものを作り出す。
たとえば電磁力について考えてみるといい。原子力は別として、現代科学とは電磁力が母体となった技術体系である。というのも、地球上で消費されている電気のほとんどは電磁誘導によって生産されており、そこでは、電場と磁場の対称関係のみが利用されているからである。これは、回転の技術である。ヌース理論で言えば、観察子ψ3-4-5系列の形態操作に当たる。回転とは「等化の本質」だということをお忘れなきよう。NCジェネレーターは電磁誘導の原理をそのまま高次元に拡張していく試みによって生まれてくる高次の発電機のようなものだと考えていい。電子のもつU(1)対称性を超対称性の次元まで発展させることのできるトポロジーを考え、そのトポロジー形態に電気を流すと何が起こるだろうか——要はそういうことを試みているのである。先日、どこかで、素粒子は歪んでいる、と書いたが、NCジェネレーターはその歪みを是正する力を持つことになるかもしれない。
3月 31 2005
ヌース理論とオカルト
トーラス、チョコボ、S、G氏の4人は午前中、博多を後にし別府へと向かった。昨夜は4人ですき焼きをつつきながら、明け方近くまでヌース関連の話題で話が弾んだ。
スペインに10年近くガイドとして滞在していたS氏はヌース理論は日本よりもヨーロッパの方がはるかに受けいられやすいだろう、と話していた。というのも、特にスペインなどは大卒レベルの学歴がある人であれば、歴史や文化の背景にオカルティズム(この場合「カバラ」のことを指す)がいかに根付いているかを知っている人が多く、ヌース理論のような現代版オカルティズムはむしろ歓迎されて受け入れられるだろうというのである。
実は、わたし自身にもヌース理論はオカルティズムの正当な嫡子だという自負がある。だから、人にヌースは疑似科学だ!オカルトだ!といった批判を受けても、そうですよ。というしかない。問題なのは、そうやって、オカルト批判している人たちに限って、オカルトについて全く無知な人たちが多いということだ。オカルト映画という言葉が定着してしまったせいか、日本ではオカルトというと何かグロテスクな悪霊信仰の類いか何かのように思っている人もいるし、ひどい人はオカルトとカルトがごっちゃになっていて、オウムのような集団のことを指すのかと思っている人たちもいる。そういった意味では間違ってもヌース理論はオカルトなどではないので、あしからず。
オカルトとは元来「隠されたもの」を意味する。これはキリスト教が異端としてきた古代哲学の地下水脈全般をさす言葉だ。さしずめ日本的に言えば「密教的なもの」といったニュアンスだろうか。
ヨーロッパの歴史や文化は、このオカルト的なもの(密教的なもの)とキリスト教的なもの(顕教的なもの)のせめぎ合いの中で発展してきた。あのルネサンスもオカルト回帰と言っていい出来事であったし、そこから、近代の哲学も文学も芸術も、そして科学さえも生まれてきたのだ。つまり、ヨーロッパ近代の知全般がオカルトをベースに発展してきたと言っても決して過言ではない。ヨーロッパの知識人たちの多くはそのことを深く理解している。しかし、残念ながら、日本の知識人たちはそうではない。日本は明治になって近代化を促すために、ヨーロッパのほんの上っ面だけを急遽輸入し、プログラム化を急いだ。当然、そこで取り入れられた知識は政治、法律、軍事、科学技術といった実学的内容が主であり、宗教、思想、芸術といった文化的なものはほとんど皆無だった。現在の日本人(当然、わたしも含む)の軽佻浮薄なメンタリティはほとんどがこの愚行に起因しているのではないかと思う。実際、G氏はあの天下のT大の哲学科でヴィトゲンシュタインを専攻した哲学青年であるが、彼にT大の哲学の授業の様子を尋ねると、オカルトの「オ」の字も出てこなかった、という。何ぃ〜。哲学の授業にオカルトが出てこない?ヘーゲルだって、ニーチェだって、ハイデガーだって、オカルトなしには存在しなかったろうに。。。これは本当に本当におかしな話なのである。
哲学の父とされるプラトンはアテネでアカデメイアを設立する以前、ペルシア東方のバクトリア王国に滞在し、そこでミトラ教のマギから多くのことを学んでいる。プラトン哲学の基礎は東方のマギたちの世界観にあるのだ。そして、もちろんこの世界観は現在ではオカルトと呼ばれているものの起源である。つまり、プラトン哲学もオカルトなのである。こうした事情が意図的に隠蔽されているのかどうか知らないが、最高学府で哲学を学ぶ学生たちでさえ、このありさまなのだから、通常の知識人に至ってはもう全滅である。
現代の知識人に忌み嫌われるオカルトの系譜。ヌース理論には曲解されてしまったこのオカルティズム的思考を再び、現代に蘇らせる使命もある。それは骨の折れる作業には違いないが、それがなければわたしたちは決して普遍的なものと接続することはできないだろう。
By kohsen • 10_その他 • 2 • Tags: オカルト, カバラ, ニーチェ, ハイデガー, プラトン