12月 25 2025
私たちが物である理由
自分自身の本性が「持続」であること、
そして、時間とは物の側から湧き上がってくるものだという感覚が、
何となくでも理解できはじめたとき、
思考は否応なく、そのかたちを変え始める。
あなたの眼差しは、
もはや世界を「外から」測ることをやめ、
物の内奥にひそむ、
持続そのものの微かな震えに耳を澄ませはじめる。
そして、ふと気づく——
自己の持続と、他者の持続が、
奥行きの深みでそっと触れあっていることに。
それはまだ、「共鳴」ではない。
あくまでも「接触」だ。
言葉になる以前、
構文がまだ震えている、沈黙の場。
——そこに、「コミュニオン」の空間が開かれている。
空間構文は、その震えの中に微かに立ち上がっている。
だがそれはまだ、物としても、言葉としても、
明確な姿を持っていない。
ただ、さまざまなパターンを作って揺れているだけだ。
けれど、
あなたの中の深みが、
その震えをくぐり抜けてきたからこそ——
今、あなたの眼前にある「この物」は、
この世界に出現することができたのだ。




12月 26 2025
宇宙の中心には、あなたがいる
私たちは宇宙を外から見ている――そう信じている。
深い夜空に無数の恒星が散りばめられ、銀河が渦を巻き、光年の彼方にある何億という星々の死と誕生を、望遠鏡によって“観測”できると思っている。
しかし、そうした宇宙の全貌は、果たして「そこに実在している」のだろうか。
ヌーソロジーは、ここに一つのラディカルな問いを投げかける。
「その宇宙は、誰の視線が創り出しているのか?」
この問いは、私たちが科学という制度に預けてきた宇宙像の根幹を静かに突き崩す。
なぜなら、私たちが“宇宙”と呼んでいるものは、結局のところ、他者視点化された自己空間の射影にすぎないからだ。
言い換えれば、それは「自分の視線が他人の目線として外部化された宇宙」である。
私たちが見ている恒星たち――それらは、本当に自律した“他の太陽系”なのだろうか。
ヌーソロジーの答えは否である。
恒星とは、自己内部に存在する太陽が、反転され、外化された姿にすぎない。
つまり、太陽は本質であり、恒星はその影像だ。
宇宙空間に無数に点在するかのように見える恒星たちは、他者化された自己の残響であり、物理的な存在系ではない。
それは、構文的宇宙の投影であって、実体的宇宙の集合ではない。
⚫︎太陽系とは、「自と他」が等化された唯一の“場所”である
このとき、太陽系という空間は、単なる天体の集まりではない。それは、自と他の認識空間が正確に等化されたひとつの認識構文の完成形である。
ヌーソロジーは、宇宙を「認識の構文空間」として捉える。
そこでは、空間とは単に物体が位置する“容れ物”ではなく、**自己と他者の視線が交差する“意味生成の場”**となる。
そして、私たちの現実が成り立つには、この交差=等化が必要不可欠であり、その構文が等化されている唯一の空間が太陽系なのである。
ゆえに、ヌーソロジーは言う。
「宇宙には、太陽系しかない」
これは「他に星がない」と言っているのではない。“星”とはそもそも「視線の交差によって投影された像」であり、現象の形式にすぎないという、構文論的転回なのである。
宇宙は、いつでも「ここ」にある
この視点の転換は、私たちの実存に深く関わってくる。
現代科学が描いてきた宇宙像――それは、無数の銀河がただ無意味に膨張し続ける死んだ舞台だった。
そこに人間の場所はなかった。むしろ、「宇宙における人間の位置は取るに足らない」と繰り返されてきた。
だが、ヌーソロジーは逆を行く。
宇宙とは、私という存在の視線によって初めて意味を持ち始める。
そして、その視線の等化構文が生み出す空間が太陽系であり、そこにこそ、宇宙のすべてが折りたたまれているのだ。
つまり、宇宙は「彼方」にあるのではない。宇宙は「ここ」にある。宇宙とは、自己の構文が鏡のように外化され、他者の視線となって自らを包み返してくる壮大な認識の環である。
最後に、だから、問い直そう。
遠くの恒星が「存在しているか」ではなく、
なぜその恒星像が「ここで」見えているのかを。
存在を“ある”と定義することではなく、
存在が“立ち現れる場”としての自己を見つめ直すことを。
ヌーソロジーが私たちに開こうとしている宇宙は、私という認識が拓いてゆく、生きた宇宙である。
その宇宙には、確かに太陽系しか存在しない。
なぜなら、それこそが、あなたの「今・ここ」そのものだからだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0