3月 26 2018
未来の地球
バイスペイシャル認識が空間に関してはマクロとミクロの重なりをイメージ化させるということはすでに話した。では、時間に関してはどうだろう。時間も同じく、流れる時間と流れない時間という二つの時間を同居させてくる。マクロでは時間は流れるが、ミクロでは時間は持続そのものに変化するからだ。
これらの感覚の形成によって、物理的なものと心的なものがもはや識別不能となる世界が現れてくる。これはドゥルーズのいう〈結晶イメージ〉というものに近いのだが、この世界ではもはや現実と想像は等価なものとなり、過去と未来は現在に付着し、文字通り時間は結晶化し、私たちの内的現実が姿を表す。
こうした世界がヒルベルト空間の内部の描像であると言ったら、物理学者が笑い出すのは必至だが、奥行きを虚軸と見なし、そこに持続を見るなら、そのような描像が成り立つ。その意味で言うなら、時間の結晶化とは素粒子内部への思考の侵入と言い換えていいのかもしれない(下図参照)。
もちろん、ここに示した図では時間と空間の出処が不明のままだが、私たちが慣れ親しむ通常の時間と空間は、自己の持続空間が他者の持続空間と出会い、さらに巨大な結晶化を生むところで生成されてくるもの、ということになるだろう。持続イメージ同士が結ばれ、物質となって立ち現れてくるのだ。この図の一段階上にその領域はある(これがいつも話しているSU(2)の場所)。
そこまで明確にカタチが見えてくると、無意識における最も基本的な生成のループが朧げながらも感受されてくることになる。これは無意識の反復が行なわれている第一の回路のようなものだ。それが意識化されれば、時間と空間は外在であることをやめ、われわれの内に内在化するはずだ。
それは、ハイデガーのいう「二重襞」が見えてくる現場でもあるだろう。持続が物質へと変身するその身振りを誰でも目撃することができるようになるということだ。外側から見た物質と内側から見た物質との調和関係の樹立と言ってもいい。
ヌーソロジーが予言する精神と物質の統合とは、そのようにして行なわれていくはずだ。換言すれば、物質が物質自身を精神として語り出すのだ。そのとき、今の人間形態は世界の表舞台から消えていくだろう。
まだまだ遠い先のことになると思うが、こうして、地球は人間不在の本来の地球へと戻っていく。
5月 29 2018
沈黙の響きを震わせるカタチの世界へ
ヌーソロジーの分かりにくさは「あるもの=客体」や「いるもの=主体」で世界を考えないというところにある。じゃあ、何を通して世界について思考しようというのか。それは―「なるもの」を通して―ということになるだろう。
「あるもの」とは結果の世界。「いるもの」とは「あるもの」がその原因へと方向づけられたところに生まれるもの。「なるもの」とは原因の世界。そして、この「なるもの」から「あらしめるもの」と「いらしめるもの」が生じ、それらの働きによって、「あるもの」と「いるもの」が送り出されてくる。
空間的に言うなら、「あるもの」とは幅の世界。「いるもの」とは幅化した奥行きの世界。「なるもの」とは幅を拭い去った純粋な奥行きの世界。奥行きは自然が精神化していくためのポータル(入口)である。カッコ悪い写真だが、気持ちは伝わるだろう(笑)
「なること」としての奥行きは、散乱した光を拾い集めていく。この光の回収作業によって言葉は砕け散る。ハイデガーが言うように、与えられた言葉を沈黙の中に砕け散らせること。そこに、「なること」としての別の生き物が立ち現れる。そうやって、空間にカタチが生まれ出る。
このカタチについては、思想史の中で実体形相や共通本性など、いろいろな言われ方をしてきた。いずれにせよ、空間が精神化するときには、時間は結晶化しなければならない。
※下写真はそれぞれ覚醒期”レムリア”シンポジウム 『記憶』でのショット。参加者の天海ヒロ氏と稲田明子さんによる撮影です。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ハイデガー