7月 11 2016
宇宙的視座から国会議員を選ぶとすれば
大雑把に言うと、主体と客体それぞれの場の関係は持続空間と時間・空間の関係に置き換えることができます。時間・空間は自他という二つの持続空間が同一化することにより出現してきています。同一化は一種の結びです。この同一化にあたって互いの結び目として形作られていくのが物質です。
この同一化のときに生じる結び目の物理学的表現が陽子と中性子だと考えるといいと思います。電子はこの結びの運動を逆転させようとするところに生まれている共振場のようなものです。電気的に陽子は+、中性子は0、電子は-ですが、これは中性子が陽子の持った方向性を相殺し、そこから電子が新しい方向性を作ろうと働いているからです。
OCOT情報では「陽子とは愛」とされますが、これは過去に達成された愛を意味していて、過去に達成された愛は人間の世界に対しては同一性としての力を供給してきます。人間が外在世界を「一」として感じ、内在世界を「多」として感じているのは、この過去に達成された愛から内在世界が逃れようとしているからです。
過去に達成された愛としての同一性は時間や言語として出現してきています。その意味で言えば、時間と言語は客観的意識の芯のようなものです。その力を無化しようとして働いているのが中性子で、その意味で中性子は「こころ」と言っていいものになります。
「こころ」はその意味で新しい愛を作るための方向性として存在しているものと考えるといいと思います。「中性子とは感性、感性とは中性」とOCOT情報は言います。この中性の方向に新しい愛を作り出そうとして働いているのが電子で、この電子は「人間の意識の定質」と呼ばれます。無意識の主体のことです。
原子はこの無意識の主体である電子が陽子や中性子に対して意識的になるとき生まれてきます。つまり、人間の無意識の主体が自分自身の意識の世界に意識を向け、それに対して意志的な存在になるときに形成されてくるということです。宗教的に言うなら、魂が霊へと脱皮するときの境位です。これをヌーソロジーでは「顕在化」と呼んでいます。
原子の世界には同位体というものが存在しています。この同位体は中性子が方向を見誤ったところに生まれているものです。転倒が起きているということですね。同位体には人間が感性の力を他者側の感性に委ねている状態が投影されています。もっとも、転倒を宿命づけられているのが「人間」という存在なので、同位体とは原子における人間の表現ということになります。
OCOT情報は放射能というのはこの同位体の働きを消すための精神における調整が生み出していると言います。「放射能自体は悪いものではない」とOCOTがいういうのもそういう理由からです。人間における世界の在り方自体が宇宙からすればもともとバランスを欠いているので、そのバランスを復元しようとする結果だと言うのです。
スピノザの有名な言葉に「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように」というのがありますが、この言葉は同位体として働く人間の意識の特性を端的に象徴しているような気がします。
こうした宇宙的視座から国会議員を選ぶのもたまにはいいのではないでしょうか。彼は古い愛に支配され、同位体にまみれているか。それとも、同位体から逃れ、新しい愛の方向に人々を誘おうとしているか―僕だったら何の迷いもなく、後者のタイプに投票しますね。




5月 10 2017
今度のシュタイナーとヌーソロジーのコラボ本は逆識(反-常識)を打ち立てるために書かれた本です
理念を思考する者は、今までに見たことも聞いたこともないような問題を立てなくてはいけない。というのも、理念とは無意識の顕在化を意味するからであり、それは意識が対象としているものの範疇には含まれていないからだ。思考のエレメントの総取っ替えが必要だということ。
では、いままでに見たことも聞いたこともない問題とは、どういう類の問題を言うのだろうか。例えば、宇宙はどのようにして生まれたのか、といったような傍観者的な問い立てでは全く意味をなさない。それだと結果(同一性)の世界の中での堂々巡りが続くだけだ。科学的思考がそれを代表している。
むしろ、このような宇宙が成り立つためには見るものと見られるものの間の関係性にどのような条件が必要となるのか、といったような当事者的問い立てが要請されてくる。つまり、物質世界全体を超越論的思考の網にかけることが必要なのだ。そこで初めて思考は物質との直接的な接触を持ち始める。
スピノザ、ベルクソン、ドゥルーズの思考の系譜がつねに「永遠の相」のもとに思考を展開しようとするのも、このような見るものと見られるものが一致した位相には、クロノス(物理的時間)の勢力が及ばないと考えているからだ。
物質は時間と空間の内部に出現してくるものには違いないが、その組織化自体は時間と空間の外部で為されている。素粒子が複素空間でしか記述できないのもそのためだ。物質の根底がそうなのだから、原子も分子も鉱物も生物も、その組織化が為されているのは、時間と空間の外部において、なのだ。
シュタイナーが語るエーテル界やアストラル界といった世界は、言葉の響き自体はオカルティックに聞こえるかもしれないが、そうした時間と空間の外部にある、永遠の相における領域のことだと考えるといい。
そうした永遠の相の世界を丸々否定している、というか、それをないものとして全く考慮しないのが科学的思考だと考えると、科学的唯物論が呈する世界観がいかに狭隘な場所に人間を閉じ込めようとしているかが分かるだろう。そういった場所では、人間は干からびる。
今度のシュタイナーとのコラボ本では、こうした内容をシュタイナー側とヌーソロジー側から、逆識(反-常識)を通した人間宇宙論として詳細に語っている。要は、今まで見たことも聞いたこともない問題提起で埋め尽くされた、理念世界の紹介本になっている。是非、多くの人に読んでもらいたい。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, シュタイナー関連 • 0 • Tags: アストラル, エーテル, シュタイナー, スピノザ, ドゥルーズ, ベルクソン