8月 10 2018
哲学が生き残るためには、時代に合った表現を見つけ出さないといけない
今、哲学界のロックスターとして脚光を浴びているドイツの若手哲学者マルクス・ガブリエル。『なぜ世界は存在しないのか』という最近の著書もかなり売れてるそうだ。先日来日したらしく、そのドキュメンタリーをNHKのBSでやっていた。
前半部、いきなりストーンズの『brown sugar』がかかり、ストーンズフリークとしての僕はもうご機嫌(^^)。映像は、いつものNHKテイストではあるのだけど、結構、細かいところまで気を使っていて、ヌーソロジーの問題意識に訴えかけるところも多く、最後まで一気に見入ってしまった。
ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』という近著、発売時期に一読したのだけど、僕的にはさほどのインパクトはなかった。ガブリエルは英米哲学と大陸哲学の統合を射程にして、ヨーロッパとアメリカの間をまたにかけて精力的に動いているらしい。
英米で主流なのは分析哲学や論理哲学、一方、ヨーロツパで主流なのはカント、ヘーゲル由来のドイツ観念論哲学(フランスの現代思想も入るのかな?)。ガブリエルはこの両者を何とか合体させれないものかと考えていて、彼自身の思考スタイルもそれに倣ってかなりハイブリッド臭を漂わせている。ただ、全体的な印象としては、論理哲学的な理路への偏りが感じられ、結論づけだけを大陸哲学よりに寄せてきてるといった感じ。結局、「意味の場の存在論」などといった、さほど新鮮にも思えない考え方でまとめている。(僕自身、しっかり理解できているわけでもないけど。。)
ガブリエルの哲学にはあまりピンと来なかったが、生身の彼が放つ波動というか空気感には大いに好感が持てた。普段はヤワな人のいいインテリ青年のような雰囲気なんだけど、議論が始まるととたんに目が変わる。ここがヤバくていい(笑)。
番組の途中、ロボット工学者の石黒氏と議論するシーンがあるんだけど、このときのガブリエルの目はかなり怖い。明らかに、石黒氏陣営を倒すべき仇敵と見なしているのがひしひしと伝わってくる。石黒氏も石黒氏で、初めっから哲学者の言葉なんて聞く耳は持ってないので、あえて反論もせず、苦虫を潰したような、それこそ自分が作ったアンドロイドと同じような顔になって沈黙を保ったままでいる。このシークエンス、現在の哲学と科学との関係が象徴されているようで、とても楽しめた。
途中、ハッとさせられたのが「民主主義はその前提として倫理が必要」という主旨の発言。この言葉がなぜかとても響いた。つまり、倫理感がある程度浸透している社会でないと民主主義は機能しないってこと。今の日本なんか、欲得でしか民主主義が動いていないから、私欲目的の金権主義しか実現することはなく、つまるところ、民主主義はその前提の段階ですでに崩壊している。
ただ、民主主義に倫理が必要とガブリエルはさらりと言ってのけるけど、いざ「倫理って何よ?」って聞かれると、答えるのはとても難しい。倫理の起源とは何か。また、倫理は一体何によって根拠づけることが可能なのか?途中に出てくる「人間の尊厳」という言葉にしても同じこと。
―ここは近代合理主義を支えてきたカント哲学にとってのアキレス腱のようなものなので、西洋哲学のその後の歩みもまた、この根拠づけに躍起になってきたわけだけど、決定打は未だ放たれていない。ハイデガーとかドゥルーズが目指したのも、その根拠づけと言っていい。
そして、ヌーソロジーもまた同じ。要はスピノザの「神」をどのようにして、現代に蘇らせるかってことなんだけどね。
BS1スペシャル「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」
10月 3 2018
元止揚(げんしよう)という概念について
今回は「元止揚」という概念について。
「止揚」には、もともと「二つの対立する方向の力を統合する」という意味がある。だから「人間の元止揚」という表現には、「人間の意識活動の元となるために対立しあう精神の統合化として生まれてきたもの」といった意味合いが含まれている。
人間の意識において、この元止揚は物質として出現しているものすべてに当たると考えていい。つまり、物質世界とは、人間の意識を活動させるために高次の精神の対化が止揚されて生み出されているものだということだ。それが人間の存在の母胎(元)となり、そこから人間の意識活動が開始されていると、とりあえずは考えよう。
その意味で、高次の精神の全体側から見るなら、人間の意識活動とは自分たちの活動の最先端に位置するものであり、そのような場所をヌーソロジーでは「総体の内面」の方向と呼んでいる。「内面」とは進化の方向を指す。一方、人間の意識に見える物質世界は高次の精神全体からは「総体の外面」に当たる。
これは、総体の外面は、真実の意識(精神の全体性が持つ意識)にとっては自分たちの精神の履歴のようなものに見えていることを意味している。
精神進化の最先端は、物質として人間の肉体に集約されているので、総体の外面に見える精神の総体性が他者身体。総体の内面に方向づけられているのが自己身体ということになる。
自己身体のみが奥行き(持続)を持つように現象化しているのも、そのような理由によると考えるといい。また、総体の精神は人間の純粋持続の中にその姿を現していると言ってもいい。
もちろん、他者サイドにおいては、この関係は逆転している。つまり、総体自体も内面と外面をキアスムとして持っているということだ。
さて、ここからは物理学と関連することだが、総体の内面と外面の差異は物質の質量として現われる。つまり、質量とは総体の外面から総体の内面を形作るまでの精神の力が生み出している力に由来しているということだ。一方、エネルギーとは、その力を人間が人間の内面方向に融解させているものと考えていい。人間の内面は総体の外面方向に当たる。つまり、人間の内面の意識は、精神によって作り出された質量を逆方向に反転させる方向を持っていることになる。このとき生まれているのがエネルギーと呼ばれている物だと考えるといい。
この関係を、かの有名なアインシュタインのエネルギーと質量の等価式E=mc^2で見るなら、次のようになる。
c=i(光速度=虚数単位)と置けば(この置き換えはあくまでも比喩です)、E=mc^2とは、E=-m。その意味で、OCOT情報は、c^2(光速度の二乗)のことを「融解質」とも呼んでいる。この「i × i =-1」は、わたしたちが時間と呼んでいるものの本質と考えていい。つまり、時間とは精神が溶けていってる状態なのだ。その融解物としてエネルギーが発生している。
つまり、E=mc^2の本質的な意味とは、スピノザのいう所産的自然と能産的自然の関係が最もシンプルに象徴化されたものだということ。能産的自然が質量を作り、所産的自然がそれをエネルギーとして消費する。
質量を生み出すためには付帯質を精神へと変換していくことが必要だ。その意味で、OCOT情報は「質量とは変換の形質」とも言っている。これは、精神の力を構成するものが幾何学的な純粋思考の力であることを意味している。すなわち、それが「カタチ」だ。もちろん、このカタチは時空上の形ではなく持続空間上のカタチのことだ。
そして、この「変換の形質」による生成物である持続空間上のカタチに「プラトン立体」というものが深く関わっている。人間の元止揚部分を形質化させたものがヌーソロジーが「ヘキサチューブル」(下図)と呼んでいるものだと考えるといい。これは、総体の外面から内面方向に向けられた「負荷」のカタチであり、このカタチの認識によって総体の内面が開かれていく。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, スピノザ, ヘキサチューブル, 元止揚