10月 31 2016
一つの地球から二つの地球へ
奥行きにどれだけ自覚的になれるか―これからの時代はこの「幅から奥行きへ」の反転感覚を養っていくことがすべて、と言っても過言じゃないね。そりゃあ、政治や経済のシステムの反転もいろんなところで謳われるだろうけど、それらをすべて底支えしていくのは個々における奥行きの目覚め、隠されていた虚軸の復活だってこと。
奥行きの自覚が生まれてくると、幅の世界の中の自分は「かつての自分」のように感じてくるんだよね。奥行きの自分と幅の世界の中の自分というように、自分の中の双子感覚が生まれてくるわけだ。これが”自覚”の構造と言っていいと思うよ。「自己が自己において自己を見る」ってやつ。それが空間感覚としてはっきり見えてくるってこと。
この時点で空間認識は複素化する。つまり、虚軸の自分と実軸の自分を持つってこと。ヌーソロジーが人間の外面と内面と呼んでいる概念がコレ。そして、このように空間認識が複素化した時点で僕らはもう世界を物質的対象としては見なくなる。というのも、物質的対象というのは3次元世界に出現しているものだからね。世界は自分自身として見えてくるんだ。それが素粒子世界への着床の意味だよ。つまり、奥行きが虚軸だと分かった時点で宇宙の実体にダイレクトにランディングするってこと。
そして、そこでは、かつて他者だった者も双子になっているだろうから、二組の双子が生きる世界というものに対する視界というのが開いてくる。それが複素2次元空間というやつだね。
実体のない円の中で堂々めぐりをしていた意識はようやくそこで存在の中心である球(精神)を見出し、生命の樹の根元に立つことができるようになる。
自分の中に見える新しい自分とかつての自分。そして、相手の中に想像できる新しい相手とかつての相手。それら四つのものが見えて、初めて人は他者が何者であるかが分かってくるんだ。そして、そこに本当の”出会い”というものが起こる。
この出会いによって今度は僕ら自身のカムナ(定質総体)とアマナ(性質総体)に向けての成長が始まる。もちろん、ともに双子。この成長はカムナが正20面体になり、アマナが正12面体になるところまで続いていく。そして、最後にそれらは合体し、正20-12相貫体と菱形30面体というカタチを作り、一つの殻のようになって、それまで二つあった地球を始まりの一つの地球へと戻す。
こういう物語が繰り返されているんだよね。運がいいのか悪いのかよくわからないけど、この物語の終わりが始まりへと向かおうとする時期に僕らは生まれてきたってことなんだろうね。もうすでに奥行きが目覚めてきているから―。
途中で思わず、「あのねぇ」と言いそうになったわい(笑)
11月 2 2016
無性、響き、銀河、そして死者の復活
経済、政治はもとからなのだけど、最近は、科学や哲学にもあまり面白みを感じなくなってきた。長い時代、人間を支配してきた男の語りの時代が収束に向かっている感じがする。では、女の語りとは何かということになるのだが、女は語らない。語るのは”無性”の主体ということになるのだろう。
無性の主体の語りは人間世界においては詩として機能していた。しかし、今までの詩は自分自身の文法に自覚的ではなかった。詩の目覚めが起ころうとしている。ロゴスが自らの無限を超えゆくとき、詩は自分を動かしていた文法を一つの崇高な幾何学として表現し始める。
っと、そこで、詩人の行雲流水さんのツイートが目に止まる。
旅館の部屋に「響」の書があった
音の故郷 音のが響く空間 つまりは
全宇宙空間は 響きで括られたモナド
音は無形で無境界でありながらも
その各特質を 明確に主張する性質
宇宙は音ナーダブラフマー
音楽では無い
なるほど。音の郷(ふるさと)と書いて「響く」か。「響く」はもちろん「霊引く」でもあり、音は日の上に立つ者でもあるのだろうから、響きは内なる他者存在がなびかせている自己への呼びかけの声のようなものとも言えるのだろう。他者の地球は一歩先に進んでいるもとの地球。そして、その地の住人が作り出す星々の響き。
幅に支配された意識の世界では星々は巨大な核融合炉にしか見えないが、奥行きの世界ではそれらは全く違うものだ。それらはおそらくわたしたち一人一人の中に息づく持続を高次の空間の中で取りまとめている精神活動のようなものになっている。だから銀河は地上と重なり合っているとも言える。言わば、星たちの生きる銀河とは高次の大地のようなものなのだ。
幅の意識がどれほど宇宙の真実相を歪めて見せているか。多くの人が奥行きの空間に気づき出せば、それは徐々に分かってくるのではないかと思う。そのときには神秘主義という言葉は死語になるだろう。
表現されたものたちの世界から表現するものたちの世界へ。まずは、この移行に意識的になること。それらの原初の起源は今君の目の前にある幅と奥行きとの差異にある。これから、またその十字架が稼働を開始する。選択はもちろん自由。ただし、両方を持ち合わせているのは奥行きだということ。
奥行きが主導権を握り、幅が従属側に回ったものが量子力学が扱っている空間だと思うといい。そこでは奥行きと幅は「運動量」と「位置」の固有ベクトルという名で登場している。それはわたしたち自身の実存なのだが、幅支配の世界ではその実存がミクロの中に突き放されて見える。奥行きの拒絶。
この拒絶は、すべてを対象化したがる幅意識が持った所有欲のようなものだと考えるといい。この所有欲が働いている限り、人間は存在に溶け込んでいる表現するものたちの世界に入ることはできない。それどころか、逆にそれを「死」と呼称して忌み嫌い続ける。
そう。「死」とは量子として再び、この宇宙の根底に溶け込んでいくことを言うわけだ。幅の専制から解放されるという言い方もできるだろう。量子を意識化することができれば、ひょっとすると死を自覚することができるようになるかもしれない。そうなると人間は死んでも死ななくなる、とも言える。これが死者の復活のあらまし。僕にはそう思えてならない。
下写真は行雲流水さんのTweetより https://twitter.com/clouddance2020
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: 行雲流水