8月 4 2009
ヌースレクチャー2009 IN 福岡 スタート!!
一昨日は久々のレクチャー。福岡の場合は多くても20名ぐらいだろうとたかを括っていたのだが、なんと総勢約30名の大所帯となってしまった。場所はうちの会社の二階にあるヌースアカデメイアのアジト。さほど広い場所でもないので、全員は入り切るかどうか不安だったが、何とか椅子を用意して満員御礼、札止めとあいなった。参加していただいた方には心から謝意を表したい。特に県外から来ていただいた皆さん(長崎のTさんとOさんとNさん、熊本のUさん、広島のSサン、岡山のWさん、兵庫のMさん、京都のTさん、そして北海道のTさん)には何とお礼を言っていいものやら分からない。心より感謝です!!
福岡ヌースレクチャーの歴史は結構、古い。スタートは1993年。九州全域の気功愛好家を束ねた『福岡気功の会』という組織があって、そこで会長をしていたY氏がNOOSの宇宙論をいたく気に入ってくださり、会の会員さんから聴講希望者を募り、その方たちの支えで開催されたのが始まりだ。途中、1年間だけお休みをいただいたが、この講座は1993年から2003年まで約10年の間続いた。
今回、約5年ぶりのレクチャー開催となったわけだが、参加者の半数はそのときのメンバーの皆さんたちが集まってくれた。全員、気功の愛好者ということもあって僕よりも年上の年配の方が多いのだが、皆さん口を揃えて「再開を心待ちにしていた」とおっしゃってくれ、これまた頭が上がらない想いである。
さて、肝心のレクチャーの内容の方だが、今回は第一回目ということで、初心者の方も4〜5名いらっしゃったので、ヌーソロジーそのものの内容の中には深くは立ち入らなかった。いきなり、次元観察子がどうだの、ψ3がこうだのψ4がああだのやられたのでは、普通の人は脳みそが発火してしまう恐れがある。まずはウォーミングアップ程度の話に押さえておくのがいいと判断したのだ。そのせいもあったのかもしれない。レクチャー後の懇親会では会長のY氏からはちょっと物足りなかったという辛口のコメントも聞かれた。素直に反省材料に入れておこう。
レクチャー前半は「2012問題」についての話をした。ヌーソロジーは「2012」ではなく「2013」を標榜しているので、「2012」との違いをはっきりさせるために、マヤ暦、ホピの予言、フォトンベルト、惑星ニビル(あっ、これ話すの忘れた)、Ωポイント、タイムウェーブ理論等、2012年問題と関連が深いと思われる事項について、簡単な解説を行った。
これら一連の2012年問題絡みのタームとヌーソロジーの何が違うかというと、ある意味ヌーソロジーは2012年問題には何ら関心を持っておらず、むしろそれ以降、世界のビジョンがどう変わっていくかということに関心を抱いているし、また、そのビジョンを詳しく描き出すことを目的にしているということだ。ここでいう世界のビジョンとは、ずばり、人間と宇宙の関係を人間がどう見ているかというそのビジョンのことなのだが、2013年以降、激変を被るのはこのビジョンだと個人的には予測しているので、今回は「歴史が自然を作ったのか、それとも、自然が歴史を作ったのか」という西田幾多郎の言葉をフィーチャーして、その激変の内容について少し話してみた。
歴史が自然を作る。これは言い換えれば、自然が時間の中で生み出され、進化、発展を遂げてきたという意味だ。約137億年前にビッグバンが起こり、宇宙は物質的進化とともに生成活動を今も尚継続させており、その中で地球が生まれ、人類も生まれた。そして現在のわれわれがここにいる。これらはすべては時間という大舞台の中で進行してきた物語であり、その意味では人間を含めた森羅万象は時間という歴史の中でその歩みを進めてきたと言える。常識的な見地に立てば、この物語におそらく異論はないだろう。
しかし、西田のような哲学者の魂はその逆を問う。すなわち、歴史(=時間)を作ったのは自然の方ではないのか、と。ここでいう自然とはもちろん単なる物質的な自然のことをいうのではない。古代ギリシア人がいうところのphysis(フィシス)、すなわち存在の根源そのもののことを言っている。歴史、すなわち時間というタイムテーブルに列挙された出来事の連なりなどといったものは、この存在としての自然にとってはごくローカルな出来事であり、時間もまた自然が作り出した創造物の一つにすぎないとすれば、ほんとうのところは自然が歴史を作ったのであって、歴史が自然を作ったとは決して言えなくなるというわけだ。より端的に言えば、現在の人間が持った歴史が先行する自然観は存在を忘却している(ハイデガー)ということである。
ヌーソロジーが予見する2013年以降の大激変とはズバリこの自然=フィシス=存在からの反撃によるものだと考えていい。これについても勘違いしないで欲しい。この反撃は自然破壊が人間に壊滅的打撃を与えるとか、空から小惑星が降ってくるとか、太陽からフレアーが降り注いでくるとか、UFOが大挙して降りてくるとか、そのような物質的自然が作り出す甘っちょろい、誰しもが想像できるような変化ではないのだ。存在が歴史に対して反旗を翻してくるのだから、それは僕らの想像を絶するものでなくてはならない。だから、ヌーソロジーはその想像を絶する世界を何とか描写する術はないものかあがいていると言っていい。
存在からの反撃とは言い換えれば「無時間」からの反撃と言ってもいいものなのだが、そういった意図をウラに持って、レクチャー後半はニーチェの永劫回帰やゾロアスター教の宇宙観とヌーソロジーの関連について、その要点を喋らせていただいた。残念ながら前半の「2012年問題」で時間を食ったために、後半の話をうまくまとめられなかったが、続きはまた次回ということで、参加者の皆さんにはご容赦を願いたい。
懇親会のときに、これからのレクチャーの開催要領について参加者の意見を聞いた。
1、毎月やってほしい。
2、土曜日がいい。
ということで、スタッフとも話し合い、なるべく善処していこうと考えています。
次回の開催についてはまた追ってお知らせします。
2月 12 2010
フッサール伯父さん
最近、めっきりブログを書かなくなってしまった。
と言ってヌーソロジーの構築作業を怠っているわけではないのよね。来るべき日に備えてシコシコとヌーソロジー体系の補強作業に勤しんでいるのには全く変わりはないのだけど、いかんせん、ツイッターというものが出現してしまった。このツールが何とも便利で「ついついツイッター」「いついつイツッター」という乗りで、ツイッターで現在行っている思考作業のポイントをまとめられてしまうので、ブログにどうも食指が動かないというのが偽らざる実状。
最近は現象学とヌーソロジーの関係を整理する意味で、現象学中心のお勉強を続けているのだけど、現象学の祖であるフッサール伯父さん(どことなく怒った時のカーネル伯父さんに似ている)には何とも共感してしまう自分がいる、というか、ひょっとしてワシはフッサール伯父さんの出来の悪い霊統ひ孫ではないか、なんて思ったりもする。フッサール伯父さんは人生のその大半を哲学的思考に費やしている。レベルの差は歴然とはしてはいるが、それはわしとて同じ。それも普通の人ならほんの数秒で通過してしまうような知覚の現場を半年ぐらいネチネチと考え続け、あーでもないこーでもないと思案し続けた。そんなどーでもいいようなことになぜそこまで固執するのか——普通の人には全く理解できない。は~い! それもわしと同じ。
フッサール伯父さんの偏執ぶりはたとえばこんな具合だ。目の前に郵便ポストがあったとしよう。郵便ポストは見る角度によって当然その見え方が違う。正面から見れば口がついているが、後から見ればただの赤い鉄柱に見える。しかし、郵便ポストという認識は、様々な角度から見られたそれらの知覚像の綜合によって意識に構成されることが可能となる——こんなことを春に大学の講義で語り始めたフッサール伯父さんだが、秋になって半年経って教室を覗いて見ると、まだ同じ話を延々と続けていたというからすごい、っていうか、すごすぎ。これもわしと同じ(笑)。
要はフッサール伯父さんは本来、学生に知識を伝授する講義という場で自分の思考の現場をそのまま垂れ流しにしながら、現象学という素晴らしい学問体系を作り上げていったのではないかと推測されるわけだ(何とこれもわしと同じではないか!!)。著書にしても同様のふしがある。『論理学研究』(1900年)から『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(1937年)に至るまでのフッサール伯父さんの執筆活動で、立論がグラグラと二転三転しているフシがある。つまり、フッサール伯父さんの論立てはお世辞にも論理が一貫しているとは言えない。(しつこいようだが、これもどこかの誰かさんとそっくりだ 笑)。哲学の大先生ともあろうものが、このあいだ言ってたことは間違ってました。ほんとうはこういうことなんです。というのを何回も繰り返していれば、それこそオオカミ少年よろしく学問の世界では信用されなくなるのが当たり前なのだろうがフッサール伯父さんは違う。それでも大哲学者として名を残している。フッサール伯父さんの偉いところは自分の過ちは素直に認めることができる能力の持ち主だったところだ。さらには困っている仲間がいれば喜んで手助けをした。そくな徳の持ち主だからこそ、人々は彼の理論にも真剣に付き合い続けることができたのだと思う。思考者、それも思考の限界で思考し続ける人にとって、フッサール伯父さんはほんとうに勇気づけられる人なんだよね。僕がハイデガーが嫌いなのはフッサール伯父さんにほんとに世話になっておきながら、この恩人を売るような真似をしたところ。別に善だ悪だと騒いでいるわけじゃないけど、哲学の永遠のテーマは他者ではないのか、という意味でハイデガーほど独我論者はいなかったのだろうと思う。もちろん哲学的才能としてはハイデガーに軍配が上がると思うけど、人間性はフッサールの格段上だ。
立論が二転三転したフッサール伯父さん。でも、この人が挑戦していた作業を思えばこうした二度や三度のボタンの掛け違いなど取るに足らぬ失態にすぎない。(と言って、どさくさにまぎれて陰に自分をも擁護している?)フッサール伯父さんがいたからこそ、ハイデガーやメルロ=ポンティやサルトルやレヴィナスやデリダが登場し、哲学は生き延びて現代思想の潮流を作り上げたとも言えるからだ。ヌーソロジーも原ヌーソロジーの後に続く、新生ヌーソロジストたちが出てきてくれるのを待ちわびているんだよなぁ。いや、将来、必ずそうなる——そうやって、今日もまた郵便ポストの見えについて考えているフッサール伯父さんのできそこない似の自分がいるのであった。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 8 • Tags: サルトル, ハイデガー, フッサール, メルロ・ポンティ, レヴィナス