5月 6 2016
田邊元という哲学者
甲田氏から借りている田邊元の本。旧字体でなかなかとっつきにくかったのですが、時間ができたのでゆっくり読み進めています。方向性がベルクソン=ドゥルーズとそっくり。さらには数理的にはドゥルーズよりも深い思索をしていることに驚いてます。スピノルの解釈などもヌーソロジーと全く同じなのが二度びっくり。
田邊の思考の柱は内包的時空の世界弁証法というやつにある。この弁証法はヘーゲルのように同一性への綜合へと向かうのではなく、絶えず差異化を行っていく。つまり、外延においては部分が全体に先立ち統合へ向かおうとするが、内包においては全体が部分に先立ち、その限定として部分が思考されていくということ。
田邊の思考が内包的時空へと侵入した経路がまたすごい。たぶん西田からの影響だと思われるのだけど、そこにも「切断即連続」という彼なりの世界弁証法の思考が働いている。つまり、外延(実数直線)を切断しているのは内包だという考え方だ。分かりやすく言えば、直線をある点で切る無限小の刃幅のナイフとはどんなナイフなのかというと、それは実は直線全体を含んで内側へと入り込むものだといったようなイメージ。(ヌーソロジーのいう「コンパクト化」と似てる)
田邊は、外延と内包が接するこの交点を万物が交錯する絶対弁証法の蝶番のようなものと見なして、その位置のことを「現在(瞬間)に相当する矛盾の渦動的統一の中心」と呼んでる。そして、はっきりとは明言してはいないものの、その渦動的統一の中心を複素平面と見なそうとしていた様子もうかがえる。なんて人だ!!
今から半世紀以上も前に哲学と物理学をここまで接近させて思考していた哲学者が日本にいたということに心底驚く。字体を変えて復刊してほしい。ほんま読みづらくて(笑)
田邊を読んでいて改めて思ったが、まずは「内包」という概念を取り戻そう。霊やスピリットという表現でもいいのだけど、それだと似非宗教の手垢がつきすぎていて一般では拒絶する人も多い。「内包」や「持続」という表現であれば言葉は固いけれど、僕たちに創造の思考を促していくキーワードに成り得るのではないか。要は、物の内部と時間把持の場所概念というものを意識に再生させるのだ。
もちろん、それらを奥行きの空間と重ね合わせて。ここがヌーソロジーのキモ中のキモ^^。
田邊は複素2次元空間についても、それが絶対的弁証法成立のための基盤であるかのように語っている。嬉しくなるよね。もちろん、それが自己と他者における奥行きと幅の双対的構成とまでは語ってないけど(笑)
いずれにせよ、この二重の十字路が田邊がいうところの「矛盾の渦動的統一の中心」と言っていいと思うよ。存在の力はすべてこの捩れから発生してきている。要は物理学が「場」と呼んでいるやつだね。
物理学の「場」と聞くと、途端に難しく聞こえるかもしれないけど、本質はどんな人にでも分かるものだと僕なんかは思ってる。早い話、自他の純粋な奥行きと幅の関係がスピノル場だと思うよ。そして、自己、他者それぞれが自分の奥行きと幅を同一化させているところがベクトル場。ほんでもって、自他が奥行きと幅をそれぞれ交換し合っているところがスカラー場。スピノル、ベクトル、スカラーというのは物理量の基本とも呼べるものなのだけど、全部、眼差しの交差の産物なんだよね。どういう交差を持つかによって、それぞれ空間の質が違ってくる。
この対応から考えると、僕らが時空と呼んでいるものとは、自己と他者が共に自分の奥行きを他者から見た幅に置き換えて認識してしまっているところに生じてきている。何度も言ってるけど、それが外延世界の本性だよ。内包(=奥行き)から完全に疎外された場所。それを宇宙と呼んでいるなんてちょっと怖くならないかい。そこには自分の居場所なんて存在してないよ。
でもね、現在のほとんどの学問はそこを拠点にして作られているんだよね。内包として活動している自然生命がガタガタになるのは当たり前だよ。
田邊で物足りないのは、田邊がこの内包性の数理構造を社会理論に転化させて思考しているところかな。これは中沢さんなんかも同じ。いわゆる「種の論理」というやつなんだ。内包の発展から外延が生じるのだけど、これをいきなり今の社会に当てはめてしまうと、カントと同じように超越論的なものを経験に従属させてしまうことになっちゃう。ここがドゥルーズと大きく方向性を異にするところだね。田邊元のような人でも、創造的境域という発想がないんだね。晩年の西田が田邊のことをファシストと言って批判していたのも、このへんの思考性に原因があるのかも。
でも、正直、このへんは現在の哲学の限界なんだろうと思う。人間の思考が宇宙を再―創造する力があるなんてことを誰も信じていないだろうからね。





9月 10 2018
地球の内部にあるほんとうの地球について
まずは、台風21号と北海道胆振東部地震で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。とともに一日も早い復興をお祈り致します。
………………………
OCOT情報は地震の原因について次のように言う。
地震とは。
総体的な中和を持ったものが変換を起こすときに生み出される力。
火山とは。
変換作用そのもの。噴火とは方向性がないものを方向性があるものに変える力の反映。
(シリウスファイル19921010より)
台風については聞いてはいないが、次のような情報はある。
高気圧とは人間の意識の内面の方向性、
低気圧とは人間の意識の外面の方向性。
ということは、台風とは内面化(物質化)しすぎた意識を外面(精神方向)へと変換する調整のようなものとして解釈できる。実際、台風は「巻き込む」わけだし。
となれば、古来よりの「人心乱れれば、天地乱れる」という言い伝えにも、それなりに根拠があるのだろう。地球と人の心は人知が及ばないところで、何らかの形で繋がっているのだ。
そう言えば、外宇宙にロマンを持つ人たちには誠に申し訳ないのだが、OCOT情報は、人類が地球を飛び立ち、遠い星々に旅する時代なんてものは決してやってこないとも言っていた。外宇宙とはそのすべてが地球の内部の影のようなもので、人類が向かうべきは地球の内部なのだと。
と言って、ここで、一昔前の大衆オカルトが言っていたような「地球空洞説」のようなものをイメージしてもらっては困る。アガルタやシャンバラの本質は物の内部への侵入の意であり、その意識に見えている地球のことを言う。OCOT情報にいう「方向性があるもの」とは、そのような意識の力の意だ。
では、真のシャンバラへの視力はどのようして到来してくるのか——。
そのためには、まずは、世界を「物」の内部に変えないといけない。OCOT情報ではこうした意識領域のことを「付帯質の内面」と呼んでいる。空間を持続として見なす意識が働いている領域だ。奥行きが覚醒した空間と言える(※人間の意識の外面に当たる)。
一方、人間の経験的な意識領域の方は「付帯質の外面」だ。こちらが「物」の外部世界(※人間の意識の内面に当たる)。おなじみ、空間を延長として見る意識が働いている領域だ。今の人間は付帯質の外面の意識が先手で働き、付帯質の内面の意識の方は後手に回って潜在化し、外面と内面の間で反復している。要は現象界と潜象界の関係だ(下図参照)。
この付帯質の内面領域で活動しているものは、哲学の言葉で言うなら超越論的意識というものだ。人間の経験的意識を可能にしている経験以前の何か、ということになる。カントに倣って言うなら、私たちの意識に直観、構想力、悟性、理性、判断力、統覚といった諸能力を与えているものということになる。
ヌーソロジーでは、この潜在化した付帯質の内面で超越論的意識の構成を行っているものが素粒子だと考え、その空間構造をわたしたちの認識に引っ張り出そうとしていると思ってもらえばいい。そして、それは付帯質の外面側から見れば、物の内部としか言いようがない世界になっている。
カント以降の哲学は、そのほとんどが、物自体は存在しないと言い切るが、そんなことはないだろう。ここに示すように、経験的なものと超越論的のものの相関性自体が物自体の世界の始まりとしての、素粒子自体のことなのだ。そして、ここが地球の内部への入口になっているのだろうと思う。
ヌーソロジーが「シリウス」と呼んでいるのは、この「付帯質の内面」の世界のことだ。つまりは、ヒトの元止揚空間Ω7〜8(顕在化した次元観察子ψ1〜14の世界)。どうか、科学的宇宙観が入り混じった変な宇宙人話とごっちゃにしないように注意してほしい。
シリウス神話で有名なドゴン族の儀礼において朗唱される神アンマへの感謝の言葉——「アンマはひとつ。それは14の空間。アンマの名を唱えることは空間をひとつに保つこと。アンマの名はすべてのものを保ち守るもの」(M・グリオール、J・ディテルラン『青い狐』より)
ヒトの元止揚空間は「14」の空間からなっている。そして、OCOT情報はこの領域を「次元」と呼んでいる。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, カント, ドゴン, 大系観察子, 素粒子