1月 22 2019
【シュタイナー思想とヌーソロジー】ピックアップ解説 6
シュタイナー思想とヌーソロジー本の解説6回目(最終回)。
・人間の脱中心化における二つの方向について
【シュタイナー思想とヌーソロジー】(半田パート)
科学的な認識の最大の誤謬は、自然界の中に見られる多様な現象があたかも被造物の歴史の中で作り出されたかのように錯覚していることです。p.306
シュタイナー本には書かなかったけれど、この問題を改めて思想のテーブルにあげたのがメイヤスーの「祖先以前性」に関する議論だね。人間が登場する以前の世界について人間はどう考えればよいのかという問題。科学は物的証拠からその世界について、あたかもそこに居合わせたかのように語るわけだけど。
果たしてそれは本当なのか。ここには物質が先か、精神が先かという伝統的な哲学的難問が顔を出してくる。哲学者は科学的な言明はあくまでも間主観的な判断と見なして、相関主義的立ち位置を崩さない。その曖昧さにツッコミを入れたのがメイヤスー。「46億年前に地球が形成された。」のは本当か嘘か?
ヌーソロジーから言わせてもらうなら、この選択は哲学者にとっての踏み絵と言っていいものじゃないかね。そんな言明は「嘘っぱちだ!」と言わないとダメだよ。言えなければ哲学者じゃないし、哲学の存在意義もなくなっちゃう。
メイヤスーは、哲学は相関主義(現象と人間の思考は表裏一体でくっついてるとする考え方)から脱してコぺルニクス的な脱中心化に対して忠実であるべきだ(「本質を外に見ろ」ということ)とハッパをかけてくるんだけど、この脱中心化の方向に物質と精神の二つの方向があることに気づいていない。それこそ、これはシュタイナーが言ったことでもあるんだけどね。
「ある現象領域の本質とそもそもかかわりのない思考パターンにとらわれていたなら、あらゆる知識を総動員したとしてもうまくいくはずがない。たとえばそのようなことは、太陽に生起している事象の中へ地球空間の理念をそのまま持ち込もうとするようなときに起こる。」―『シュタイナー思想とヌーソロジー』p.484
地球が中心ではなく太陽が中心になったこと、それはそれでいい。しかし、メイヤスーのいうコペルニクス的転回(科学的思弁への移行)のイメージは、単に地球空間の理念をそのまま太陽空間の理念に引き写しただけで、太陽さえも物質的な世界として映し見ている。
カントのコペルニクス的転回(主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従うとする、従来の考え方に対する反転した考え方)をプトレマイオス的反転と揶揄するメイヤスーは、カントが産み出した超越論的哲学が精神の方向への脱中心化の萌芽であることを見抜けていない。シュタイナーの表現で言うなら、カントの「超越論的」という概念は「太陽空間の理念」を発現させるための礎石となるものだ。
その意味で言うなら、近代に起きたコペルニクス転回は人間の意識の位置を、物質と精神という、それぞれの方向へと方向づけるための出来事だったのだと言っていいように思う。
そして、今や近代も終わり、この方向づけがある種の実体として出現し始めている。それがコンピュータとヌーソロジーなのだろうと考えている。
脱中心化の位置として、太陽が中心化されるのはいい。しかし、問題はそれが物質的太陽か、霊的太陽かということだ。両者はまったく正反対の方向を持っている。この鏡映感覚を注意深く育てていくこと。
5月 7 2020
ヌーソロジーと精神分析
現在、ヌーソロジーの次元観察子の概念を使って、ラカンの精神分析の内容を空間知覚の中で見ることができないかどうかを確認中だけど、精神分析に限らず、心理学の基礎的なことを知っておくこともヌーソロジー理解にかなり役立つのではないかと思っています。
心理学については春井さんがそのあたりを大まかにダイジェストしてくれてます。
http://ideapsychology.net/2020/05/02/growth1/
そういえば、最近、宮台真司さんが春井さんの分析記事をツイッターで紹介してくれたみたいで、春井さんもとても喜んでました。
(宮台真司)
読ませていただきました。筋が通り、実践の構えが見える、めちゃめちゃ素晴らしい原稿です。
春井星乃|社会学者宮台真司さんのお話を心理学的に考察してみた。
http://ideapsychology.net/2020/04/23/miyadai/
心理学の父と言われる人物はご存知フロイトだけど、フロイトの精神分析のアイデアはカント哲学から来ているとも言われてる。つまり、カント哲学が示唆した超越論的なもの(アプリオリ)をフロイトは心理学的側面から無意識の概念に置き換えて、実際の臨床へと応用しようとしたわけだね。
だから、哲学で超越論的無意識と呼ばれているものと、心理学(精神分析)で無意識と呼ばれているものの根っこは同じものと考えていいのかもしれない。ただ、心理学は科学の一分野でもあるので、あくまでも人間心理を脳の活動との関連で考えるので、その点、哲学とは無意識に対する捉え方がかなり異なっている。
ラカンという人はどういう人かというと、フロイトの最後の弟子にあたり、フロイトの精神分析の考え方にヤコブソンの構造言語学などをミックスして、この超越論的な場所を言葉の構造として解明しようと試みた人。まぁ、言ってみれば、フロイトとラカン、両者ともOCOT情報のいう「人間の反対」の領域をめぐって思索を進めた人とも言える。ただ、「それは素粒子のことだよ」と言ってるのがOCOT情報なんだね。普通は、ここで、えぇぇぇ~~!!?って、感じだよね(笑)
で、その話をまともに信じて、30年もの歳月を費やしてその無意識としての素粒子のカタチをこの目の前の空間で何とか表現してみせてやろうじゃないの、と息巻いているのがヌーソロジー(笑)。その試みが功を奏せば、精神と物質はめでたく互いの一致を認め合う、という筋書きになってる。
ヌーソロジーが「外から見ると物質、内から見ると精神」となっている「観察子」という奇妙な概念を用意しているのも、哲学や精神分析の知見と物理学の知見を結び合わせるためなんだね。だから、次元観察子を使った思考というのは、最初っから物質でもあれば、精神でもあると言えるわけ。
で、その結果として最終的に何と合流してくるかというと、古代の秘教的伝統が言い伝えてきたような何か。つまり、超古代に存在したとされる人間以前の何か。この何かを哲学ではハイデガーが「存在」と呼んで追いかけてたんだ。実は、ラカンもハイデガーの存在論にむちゃくちゃ影響を受けていて、この辺りのアプリオリをめぐる話は全部つながっているんだよね。
で、それがさらに素粒子の謎の正体につながっているとなると、話があまりに出来すぎの感もあるけど、今のところ、僕が描く人類の未来のビジョンには、そういったぶっといシナリオしか浮かんでこない。
だから、ヌースから見ると、巷で言われているようなコンピュータへの意識のアップローディングとか、太陽系外宇宙への植民計画とかは、とてもありえそうもないデッチ上げの未来に見えるんだよなぁ~。新反動主義の連中は何か大きな勘違いをしてないかってね。
まぁ、どちらの未来を選択するかは人それぞれのセンスだから、それはそれでいいんだけどね。ワシは間違いなくOCOT派だね。
下写真は精神分析 東京ラカン塾よりお借りしました。
http://www.lacantokyo.org
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: OCOT情報, カント, ハイデガー, フロイト, ラカン, 素粒子