2月 3 2007
差異と反復………14
この連載で挙げた人間の外面と内面の概念はヌースがいう次元観察子ψ3とψ4のみだったが、ここから始まる差異と反復のプロセスは、ヌース理論をよくお知りの人にはもうすでにおなじみのように、とりあえずは次元観察子ψ13〜14という7段階の構成を持って(実際にはさらに巨大な観察子も存在する)、ケイブコンパスというツールでもって下図のような形で示される(図はψ9〜10まで)。現在、執筆中の新著では、このケイブコンパスのシステムが作り出す無意識構造の風景を、プラトン座標という立体地図を用いて、物理学のみならず、歴史や芸術、さらには精神分析、哲学、現代思想、宗教、神話、神秘学等を縦横無尽に横断しながら徹底的に探査する内容となっているので楽しみに待っていて欲しい。。。ということで、結びに入ろう。
「差異の必然的帰結とは、個体化は、権利上、異化=分化に先立つものだと言うこと、あらゆる異化=分化は、先行的な個体化の強度的な場を前提としていることである。」ドゥルーズ「差異と反復」(p.367-370.)
ドゥルーズが執拗に繰り返す〈異化=分化〉と〈差異化=微分化〉という互いに対峙する理念の二成分は、ヌース理論におけるこの〈人間の内面〉と〈人間の外面〉のトポロジックな位相関係にきっちりと対応している。内面は分断的、断片的なパラノイアの王国であり、外面は無境界で、連続的な離接作用を持ったスキゾフレニアックな草原地帯である。トポロジーの用語でいえば、これらは非コンパクト化とコンパクト化に対応させることができるのかもしれない。∞が無限大として開いているか、それとも無限小と等化されて閉じて連続化しているか。直線的か、円環的か。角張っているか、丸みがあるか。鋭角的か、曲線的か。束縛的か、開放的か——等々。
ヌース理論では人間はその本性自体が性的倒錯者であると絶えず説いてきた。〈わたし〉と〈あなた〉も、〈過去〉と〈未来〉も、〈原因〉と〈結果〉も、ひょっとして〈男〉と〈女〉も。。。みんな本来あるべき姿とは逆さまになっている、そう語ってきた。それらは、ここでのドゥルーズの言い回しを借りれば、「あらゆる異化=分化は、先行的な個体化の強度的な場を前提としている」という内容とほぼ同じ意味を持つ。つまり、「先行的な個体化の強度的な場」とは魂の生産が行われている場であり、ここは物質がこの世界に登場する以前に、物質よりよりリアルな何者かとして作用していた場だった、もしくは、場となるところではないかと考えられるからである。この場は少なくとも通常の因果律的な反復(あれが原因でこうなった。こうなったのはあれが起ったからだ——等)が起っている場所ではない。物質に先行した精神が活動してていた場所であり、精神によって物質は創造されてきたのだ。しかし、このことは、必ずしもヌース理論が従来のプラトニズム的な議論、すなわち観念論VS実在論、観念論VS唯名論のような水かけ論を、再度、持ち出すことを意図しているわけではない。ドゥルーズにしてももちろんそうだろう。単純な言い方になるが、ドゥルーズは、それらの関係の差異、つまり観念的なものと実在的なものの差異を明確にすることによって、この両者がバロック的な襞形成の運動のもとにダイナミックな生成活動を行っている様子を彼独自の概念創造の中に構成しようと試みているのである。だから、ドゥルーズにおいて語られるべきは〈悟性=内面〉でも〈感性=外面〉でもなく、またカントの構想力、綜合力といった曖昧な概念のことでもない。〈悟性-感性〉を相互につねに交通させていくシステム、また、それら互いの差異と反復を司るより奥裏のより実存的な機構、実体のダイナミズム、力動的な生産を生産していく〈流れ〉としてのマシニズムの世界を人間の思考に出現させようとしているのだ。そして、そこにある機構こそがドゥルーズのいう《理念=イデア》のイメージなのである。そんでもって、おまけに、ドゥルーズは「君自身がそれなのだ!!だから、それになれ!!」とはっぱをかける。わぁお、そんな御無体な。。。その精緻な思考、イマジネーションにはほとんど圧倒されてしまいそうになるが、その骨格的ビジョンはヌース理論と極めて似ているのだ。
ドゥルーズのいう「強度的な場」とは、わたしたちが実際に対象と触れ合うことのできる、もしくは、対象として生成して生きる現場そのもののことだ。そのような現場は、現にここに生きている〈わたし〉そのものと区別することができない「生」そのものの風景であると言ってもいい。主人公がいて、舞台があって、物語が進行していくのではない。物語こそが主人公であるような物語。赤い花がそこにあるから花が赤いのではなく、赤があって、赤い色が花という形態を通して自らの姿を露にしている…そして、それはとりもなおさず、わたし自身が赤そのものに変身しているからである、といったポイエーシスの思考。。。某詩人風に言えば、「持つ(所有すること)」ではなく「なる(生成すること)」の思考。「わたし」が「御飯を食べる」のではなく、「御飯を食べる」が「わたし」している——使い古された言い回したが、強度の風景、人間の外面の風景とはそういうものである。
現代科学は時空という場が人間の発生以前に誕生したものと考えてきた。僕らはそろそろそれを過去の神話として葬り去る必要がある。客観的な時空は、ヌース的に言えば人間の内面にあるψ8に相当する領域だが、これはあくまでもψ7(人間の総体の精神)の反映として出現してくる場所にすぎない。ψ7があってそれゆえψ8があるのであり、決してその逆ではないのだ。常々言ってるように、はじめにψ7=人間精神ありき、なのである。ψ2→ψ4→ψ6→ψ8という偶数系観察子の連結で表される人間の内面の指標は、ドゥルーズの言葉で言えば、〈異化=分化〉のプロセスにおける最も基盤となる階層性を意味すると考えていいだろう。客観としての一つのモノの見え姿-ψ2。客観としての一つのモノ全体-ψ4。客観としての無数のモノ全体、もしくは一人の観測者(物質的身体)-ψ6。客観としての無数の観測者(物質的身体)-ψ8云々…というように。それら各々の領域における存在者の配位、配置関係によって、空間的、時間的な測度、尺度が成立し、諸々の存在者は人間の内面空間なりの力のピュイサンス〈累乗〉とセリー(系列)を組織し、物質的な差異なき差異の場を構成しているのだ。
それらは月並みな言い方をすれば、魂の射影としてバラバラに散乱させられた虚像の世界でもある。ここに生まれている内面なりの力のピュイサンス〈累乗〉とセリー(系列)は、〈異化=分化〉を行うための縦軸と横軸となり得るものだ。種々の存在者の分別や分類、系統の整理などは、この二つの軸を交互に交差させることによって、理性(言語)の名の下に厳粛に行われる。もちろん、その作業に外面認識が直接参加することはない。外面は遅れてきてやってきた分裂症者として抑圧され、秘密の小部屋に監禁される。男子は体育館へ。女子はそのまま教室に残れ。気をつけ。前に習え。左向け左。回れ右。ぜんたーい、進め!というわけである。モノを統制する物理法則、人を支配する法律。軍隊を統制する規律。そして、それらの諸々の法を遵守するように命じる内在に深く入り込んだ絶対者の目。それが僕らが崇めてきた神だ。そんな司令長官のような神を君は信用するのか?
さぁ、魂のレジスタンスを開始しよう。旧い神にはそろそろ退散してもらうのだ。永遠回帰の車輪は今、このとき、この瞬間も回り続けている。それに乗るか乗らないか、その選択はもちろん君の自由だが、君が真に自由を望むならこの話に乗らない手はない。反復不可能なものなど新しくやってくる民衆の辞書には存在しないということを全世界に見せつけてやろうじゃないか。宇宙の創造は今から始まるのだ。
若干、力み過ぎだけど、おしまい。
2月 15 2007
5次元から見たボクとパパ
思形の最も基本的な役割は、虚空間(奥行きが見えないという意味)として働いている前後方向に、実空間(長さが見えるということ)を設定し、それを観察することである。大人なら誰でも、奥行き方向を横から見たら幅のような長さが見えているに違いないという確信を持っていることだろう。ここで「大人なら」と書いたのは、僕が幼児の頃にはこんな確信は微塵もなかったのをよく覚えているからだ。月や太陽が遠いところにあるとは考えもしなかったし、左や右という方向を区別するのにもすごく苦労した記憶がある。幼稚園児ぐらいまでに見られる鏡文字等も、彼、彼女らにまだ左右という方向の認識の働きがよく生まれていないことを如実に物語っている。左右という方向があり、そこから見ると奥行きは幅になる——こうした確信を与えている力が思形だと考えていい。おそらくこの確信が芽生えてくるのは7〜8才頃だろう。思形の登場によって、主体は奥行きに延長を概念化することができ、モノの厚みや、主客の分離や、自他の分離を意識に明確に形作ることができてくるわけだ。
思形になぜこのような働きが出てくるかは、上に示したケイブコンパスでそのあらましを簡単に示すことができる。無意識の発達がψ9段階に入ると、精神はコンパスが示しているように、次元観察子ψ1とψ*1、ψ3とψ*3、ψ5とψ*5、ψ7とψ*7という奇数系同士(人間の外面同士)の観察子を、それぞれ対化として見る視座を持つことができるようになる。つまり、ψ1とψ*1の場合であれば、モノの見え姿(表相)のオモテとウラの存在を知ることによってモノの横からの視点が自然に主体に内在化してくることが可能になるということだ。同様に、モノの背景の表とウラ(表面と表面*=ψ3とψ*3)の存在を知ることよって、モノの外部iにある空間を横から見る視点が内在化され、自分の知覚球面と他者の知覚球面の存在(ψ5とψ*5)を並列的なものと見る視点によって、自他を横から見ている視点が内在化されてくる。これらの諸関係はψ7〜ψ8までの状態では獲得することができない。ψ7〜ψ8までの段階はあくまでも身体における前後の関係、つまり、知覚世界と知覚外世界の空間関係のみであり、これらの空間には他者を入り込ませる余地がないのである。その意味で、ψ7〜8の空間は、精神分析のいうただただ裸形の主体が孤高に存在する現実界の空間と言っていいのかもしれない。当然のことながら、この段階では、人間の自省的な意識というものは生まれてはいない。ただただ世界のみが開示するエーテル的世界である。
ψ9=思形とは、その意味で、ψ7〜8の段階まででは見えなかった関係を、他者の外面をミラーリングし、その像を自らの外面との交換関係を結ぶことによって形作られていくものとなる。この外面と外面*のミラーリングの共有によって、同時に内面と内面*側も同一化を起こすことになる。それは、思形の内面と呼ばれる領域で、ψ2とψ*2(一つのモノの内部)、ψ4とψ*4(一つのモノの外部)、ψ6とψ*6(無数のモノの外部、もしくは一人の他者とわたし)、ψ8とψ8(わたしを含めた無数の他者)、それぞれが占める空間の同一化である。何のことはない、これらは僕らが普通に所持している外界認識のことである。
(人間が意識する)モノとは思形の内面にあるものです——シリウスファイル
人間にとっては思形は無意識として働き、外界認識は無意識構造の発展プロセスの結果として、その内面に現れてくるということだ。そこでは、わたしとは無関係にモノの世界が広がっているかのように見えてしまう。モノ=対象という概念の発生。この対象概念において、現象世界は個別のコンテナに詰め込まれ、あたかも別々のものとしてそれぞれの自己同一性を与えられる。灰皿は灰皿である。ライターはライターである。机は机である。このAはAであるという同一律。理性が持ったまさに理〈コトワリ〉の儀式。世界の事物における排他的離接はこのようにして誕生してくるというわけだ。そして、見逃してならないのは、その背後を一つの精神として流れるように統合しているゼロ記号としての思形の覆いだ。こうした無意識の風景が象徴界(言葉の世界)への参入を示唆していることは想像に難くない。
〈補足〉ケイブコンパスの目盛りを見ても分かるように、この意識はだいたい7〜8才から13〜14才ぐらいまでで確立することになる。
あれ?ママが後回しになっちゃった。次回はママの番ね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: エーテル, ケイブコンパス, 内面と外面, 表相