8月 24 2022
外に立つということ
光速度について考え直してみたけど、やっぱり光速度って速度なんかじゃないよねと。
特殊相対論で座標を相対的ものとして見ている位置が光速度の位置なんだから、それこそが観察者の位置だね。人間の内面には観測者はいないよ。
だから、c=iとおけば(ct→it)、時空は必然的に4次元空間となって宇宙は一斉に内化するよね。奥行きで空間を見る、というのはそういうことを言ってる。人間の内面には知覚される世界なんてものは存在しないってこと。これは脳でクオリアを説明できないことと同じ。
周りを見渡してみれば分かるけど、奥行きに生きているのは自分だけで、その自己自身から見た場合、他者も含む他の存在者は奥行きを持たない。奥行きが実存や死と深く関わっているのは当然と言えば当然。奥行きは時空ではなく、あの世なんだよ。
この感覚が3次元に投げ込まれた肉体的な自己には分からない。奥行きは4次元だよ。そして、そこにいるのがほんとうの意識的主体。そこから世界を再構成しようと言ってるのがヌーソロジーだと思うといいよ。
4次元に入ると、時空と素粒子(物質粒子)は〈外部-内部〉の対化として見える。内部は複素空間の次元として次元の階層性を作り、原子(精神)化していくけど、外部においてはそれらの次元的な差異は時間の名のもとに一元化され、単なる物質にしか見えない。それが中和という状態の意味だ。中和に生きる人間。そして、中和の中で物質化する精神。
自然界の多様性の由来は、精神が生み出す様々な生成次元の投影にある。生態系とてもちろん例外じゃない。おそらく種の違いも精神の次元発展のプロセスに由来するものだろう。そして、その多様性を観察するオメガなる存在がアルファに接続する場所の物質的投影が人間という種として現出している。言語はそこにおいて活動している。
この存在-内的な精神のフローの場を世界と見なす視力を養うための思考を生み出すことが、これからの私たちの知の営みとなっていくように思う。自己イメージを奥行きの空間を通して自然の内部へと浸透せていくこと。OCOT情報が「核質の解体」と呼ぶ概念も、そのような人間の変容のことを指す。この「核質の解体」によって無核質が発動を開始すると言う。
シュタイナーの言葉で表現するなら、OCOT情報のいう核質・無核質・反核質というものは、それぞれ下のような感じだろうか。
・核質→物質界(物質体)
・無核質→エーテル界(エーテル体)
・反核質→アストラル界(アストラル体)
・キカクシツ→神界(自我)
()内は上位次元の人間の超越論的領野への凝縮化を意味している。
ただ、OCOT情報が面白いのは、シュタイナーのように実体論的には語らず、霊的領域は高次元の多様体として空間的ネットワークとして活動していると見てるところ。その辺がとてもクールで知的だ。情動面はアストラル界の構造変動による効果として見ているようなところがあって、まずはエーテル界の構造を見いださないと情動の謎も分からないよ、というのがOCOTからの示唆だ。
核質とは下図に示すように3次元認識・対象認識・肉体的自己の認識を作る力のことをいう。4次元認識の発動によって核質は解体し無核質領域に入っていく。これが素粒子知覚の世界。それによって人間は人間のアプリオリを真の自己として見出すというシナリオになっている。シュタイナーに言うエーテル体の彫塑がこれに当たる。
量子論にいう波動関数の崩壊なんかも、〈対象として量子を観察しよう〉という行為自体が観測者を4次元の位置から3次元の位置へと落とすことによって起こっていると考えると辻褄が合うね。
11月 4 2022
くたばれ、トランスヒューマニズム!!(笑)
神尾先生が主催しているIEMJでもお世話になった生命システム研究所の根本先生の講義。ヌーソロジー研究所の研究動画でも紹介した「意識のハードプロブレム」について詳しく解説されています。最後は唯物論批判で終わっていますが、まったく的を射た議論だと思いました。
根本先生の講義を聴いて改めて思ったのは、私たちが唯物論的思考を乗り越えるためには、〈見る-見られる〉という経験の差異として現存している空間の区分を知性に上げなければいけないということ。この空間は4次元なので、正確には時間における「持続」と「通俗的時間」の区分に当たります。単純に言えば、これは身体における前と後の区分です。
唯物論は認識的に言えば、意識が対象意識に支配されていることによって生じているもので、この対象意識は〈見られる空間〉の中で生じているものです。いわゆる時空ですね。一方、〈見る空間〉である「前」としての持続空間は、実際は、そのような時空の一点一点に張り付いている内部空間になっており、現象的には、この内部空間が根本先生の言うところの「高次の空間構造」を作っています。
そして、この内部空間こそが物理学は素粒子(7次元の余剰次元)と呼んでいるものです。時空サイドから見れば、もちろん素粒子は極小の存在のように見えますが、その実質は私たちの「前」としての4次元の収縮=射影の性質にあります。実際、私たちの視野空間にはいかなる厚みもありません。要は、知覚的現実に即して世界を見ることが必要なわけです。
こうした「前」と「後ろ」の空間的差異が知性に上がってくるなら、私たちは、もはや物質を対象として見ることはできなくなってきます。というのも、この「前」が物質の土台である素粒子として物質の内部に入り込んでいるからです。言うまでもなく、この「前」とは持続としての精神のことです。魂と言っても構いません。シュタイナーの言い方を借りるなら、エーテル空間と言ってもいいでしょう。
物質ではなく空間を見ましょう。物質の本質はこうした4次元を土台にした高次の空間構造から成っています。そこでの唯物論は、もはや唯心論と何ら変わるものではありません。ヌーソロジーが言う「物質と精神の等化」(主客一致の認識)とは、そのような高次の空間認識とともにやってきます。
複雑な理論など要らないということですね。見えるがまま、あるがまま、そして、欲を言えば自己の存在感覚のまま、空間とともに自らが空間となって思考すればいいだけです。そうすれば、そこには必然的に高次の空間世界が立ち上がってきます。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: シュタイナー, 唯物論, 素粒子