金星の女

 象徴界に入る際の去勢……難しい言い回しに聞こえるかもしれないが、何のことはない。人間が言葉を習得する際に受精能力を失うという意味である。いうなれば失楽園のラカン的言い回しである。象徴界とは簡単に言えば言語の世界である。人間は言語とともに生きる動物であり、言語によって社会秩序を形成している。ここでいう言語とはいうなれば一つの規律、約束事である。例えば、ここに「財布」があったとして、それを「魚」と呼んだのでは人間間のコミュニケーションは成り立たない。財布は財布と呼ばれることによってその同一性を確保し、他者との間で潤滑なコミュニケーションが確保される。言語はその意味で、諸事物の同一性を保持するために頑な規律を持たなくてはいけないわけだ。よって、辞書とは六法全書以前の原法の書だと言うことができる。つまり、お役所仕事のように、一つ一つの存在者が父が治める言語統括省によって登録されているのだ。この登録に違反する者は、意味不明、社会の規律を乱す者として、切り捨てられる。

 去勢されていくもの。それは、毎夜、毎夜、君の自室で繰り返される密かなつぶやき。諦めともあがきともつかない意味のない奇声——うぐぐぐぐぐ。げげっ。くぅ〜。オレはダメな男なのか?いや、そんなはずはない。こんなはずじゃなかった。おれは、おれは………——泣くな。いじけるのは早い。そこで君は何を失っているというんだ?失っているという幻想に取り憑かれて一人悩んでいるだけじゃないか。問題は世界に去勢されていること。そこに怒りを覚えるべきだ。怒りのアングリー・インチ。12インチから10インチが切除され、わずか2インチの祖チンの快楽で君は満足しようとしている。祖チンとはおさらばしよう。役人たちの真似をしようとするから君は苦しむのだ。権威、権力、金、セックス、そんなものは二次的な遊びでいい。君の真の生殖器をおっ立てろ!!
 ラカンはこの去勢に対抗する勃起器官として「√-1」、すなわちi(虚数)をおもむろに実存のファスナーを開けて取り出す。それを見て、登録役所の小役人ソーカル=ブリクモンは次のように揶揄する。

「正直にいって、われらが勃起性の器官が √-1 と等価だなどといわれると心穏やかではいられない」(『知の欺瞞』)

 残念ながら、君ら(ソーカル=ブリクモン)のソレは2インチ以上は勃起しない。だから√-1 と等価にはならないので心配ご無用。ラカンが口説こうとしているのは別の惑星の女なのだよ。黄金比的プロポーションを持った金星の美女。彼女の声を聞くことが出来る人間は少ない。果たして、君には目の前にいる金星の女が見えるだろうか。

——あたしを見つめてちょうだい。あたしは明晰なのよ。見透してるのよ。
見つめてちょうだい。あたしは幸福で震えてるわ。 (バタイユ)

君の幸福を約束してくれる女は彼女しかいない。だから、そこに君は勃起器官を立てるべきだ。リリスではなくイブを探すこと。見出されたイブこそが君が待ち望んでいるヴィーナスなのだ。

 主体は虚空間を通じて、世界に接している。もし君が自分を実空間の内部にイメージしているのであれば、君の身体は常々言っているように虚像であり、目(見ること)を摘出された髑髏の身体である。そこは去勢された闇の空間に包まれている。虚空間に出よう。そこには反転した世界=原空間がある。いい女だぞ。君が来ないなら、わたしが先にいただく。