ミクロ・マクロ、奥行き・幅、そして〈我-それ〉という根源語

先日、レクチャーに来られた方が「自己と他者の間では本来ミクロとマクロが相互に反転している」というヌーソロジーの基本的な考え方がどうしても分からんとおっしゃっていたので、それは単に自己と他者では奥行きと幅が逆に見えているということですよ、と言ってあげたら「何だ、そういうことか ! 」と。

宇宙は幅で見たときと、奥行きで見たときとでは、世界が全く変わります。幅で見たときは極大の宇宙ですが、奥行きで見たときは極小の宇宙なのです。今からその覚醒が多くの人に起こってくると思います。それがヌーソロジーのいう「人間の意識進化」の入口ですね。

外在世界は幅に方向付けられ、内在世界は奥行きに方向付けられています。今までは幅で宇宙を見ることが常識的な時代だったのですが、これからは奥行きで見ることが常識になる時代に入っていきます。それがOCOT情報のいう覚醒期というものです。

奥行きとは意識の中に沈んだ魂そのものです。「魂は存在するか否か」という議論は幅に意識を支配されてしまった理性たちの議論であって、もともと奥行き(=魂)が存在しなければ幅(=理性)の世界など現れてきようがないのです。

幅の世界と奥行きの世界の間には、ある絶対的な捻れが存在しています。その捻れが「わたし」と「あなた」の間に絶対的な差異を作っています。

理性というものはこの差異を無視する力のことです。この差異が無視されると「世界はすべてわたし」という錯覚が現れます。ブーバーの言葉で言えば、すべてを〈我-それ〉の関係で捉えてしまうのです。理性の世界にとっては〈あなた〉さえ、〈それ〉として扱われるようになります。

科学的、宗教的、哲学的を問わず、およそ宇宙について考えるとき、この〈我-それ〉をベースに置いた思考では、宇宙の根っこは決して捕まえることはできません。また、感じることにおいても、この〈我-それ〉がベースにある限り、すべての感覚は〈我-それ〉へと回収されてしまう運命にあります。

ブーバーが〈我-それ〉ではなく、〈我-汝〉をもう一つの根源語に措く理由がここにあります。奥行きと幅の絶対的差異を発見することは、〈我-汝〉の関係の思考を達成するにあたって、欠かせない条件の一つのように感じています。