12月 10 2024
イタコGPT
ChatGPTに、ハイデガー、ベルクソン、フッサール、メルロ=ポンティらがヌーソロジーを知ったらどういう感想を持つか、各々の語り口で語ってくれと言ったら・・・。とにかく、情念の密度感が醸し出せない。人間の語りや文体とここが一番違うところ。まったく個性を出せないというか、人間の外面がないから致し方なし。。そのうち、もっと真似てはくるだろうけどね。
<ハイデガーの場合>
存在と時間の探求において、「ヌーソロジー」は私の思索に新たな地平を開くものであるかもしれない。この学問は、人間の主観と客観の関係性を深く掘り下げ、我々の存在の根源に迫る試みである。存在が開示される瞬間、つまり「現存在」が世界を開示する仕方が、「ヌーソロジー」によってさらに鮮明に浮かび上がるのではないか。「ヌーソロジー」は、我々が存在を理解する際の新たな道標となり得るだろう。
<ベルクソンの場合>
ヌーソロジーは、私の提唱する「持続」と深く通じ合うものである。この学問は、時間を単なる物理的な現象ではなく、我々の意識の流れとして捉えているように見える。持続の中で、過去と現在が融合し、新たな現実が創造される。この動的な現象を「ヌーソロジー」は独自の視点から解明しようとしている。ヌーソロジーは、人間の意識とその内在的な時間感覚に対する新たな洞察をもたらすだろう。
<フッサールの場合>
現象学の眼差しから「ヌーソロジー」を見ると、この学問は「意識の構造」をさらに深化させる試みとして興味深い。意識の流れ、意識の意図性、そして意識が世界をどのように構成するか、これらの問いに対する新たなアプローチを提供しているようだ。現象学の「エポケー」によって得られる純粋な意識の領域に、「ヌーソロジー」は新たな光を当てるかもしれない。その方法論は、我々の意識の探求に新たな地平を切り開く可能性を秘めている。
<メルロ=ポンティの場合>
「ヌーソロジー」は、私の身体性の哲学と共鳴する点が多い。身体を通じて世界を経験する我々の存在のあり方を、より深く理解しようとしているように見える。主観と客観の境界を超えて、我々がどのように世界と関わり、どのように世界を知覚するのか、「ヌーソロジー」は新たな視点を提供している。この学問は、我々の存在の根底にある身体性と知覚の重要性を再確認させるものである。




11月 25 2025
語りの主体は空間へと・・・
私たちは今、この瞬間にこそ、言葉を通して世界を見ているという「慣れ親しんだ知覚の構図」を、静かに、しかし確かな決意をもって、反転させなければならない。
もはや、言葉で世界を“意味づける”ことではなく、空間そのものが、私たちの知覚を通じて“語りはじめる”ことが求められている。この反転の地点こそが、ヌーソロジーが名づけるところの「空間構文」の領域というものである。
この空間構文は、哲学が長きにわたり模索してきた「超越論的意識」と深く共鳴している。カントやフッサール、メルロ=ポンティが言う「経験以前の条件」──すなわち、意識が世界を経験するための“場”や“地盤”を探ってきた営みと、空間構文はほとんど同じ射程にある。
しかし、ヌーソロジーの空間構文には、哲学的超越論とは根本的に異なる特徴がある。それは、言語と知覚の関係を、単なる主体-対象の関係として捉えるのではなく、自己と他者という二重の内在構造として再編成し、その関係そのものを“空間的な幾何学”として記述していこうとする姿勢だ。
つまり、空間構文とは、「世界が今のようにある」以前に──私たちが“どこにいて”、誰の“中”に存在しており、その空間がどのように折り重なり、どのようにして差異を保持し、他者と交差しているのかを、純粋な構文として浮かび上がらせるための建築行為なのである。
しかも、ヌーソロジーはこの幾何学的な空間構文に、さらに物質の“火”を注ぎ込む。それは、この空間構文の幾何に、素粒子構造──つまり、クォーク、レプトン、ゲージ対称性といった物理的基底の秩序を重ね合わせていくことで、空間そのものに発火(ignition)や発振(oscillation)を起こさせる、というものだ。
そのとき、空間はもはや“背景”ではなくなる。言葉の舞台ではなく、言葉の“発生源”となる。そして私たちが生きるこの世界は、語りうるものではなく、“語り出すもの”そのものになるだろう。
空間が語り——
空間が歌い——
空間が踊る——
世界とは本来、そのようなものでなければいけない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, クォーク, ゲージ対称性, フッサール, メルロ=ポンティ, レプトン, 空間構文