9月 25 2020
ヌースが「奥行き」に至るまでの長い道のり
今度の日曜日のヌースビギナーズラック#6。素粒子の話がテーマなので、『光の箱舟』の共著者である砂子岳彦氏をゲストに呼ぶ予定でしたが、機材の能力不足でSkypeの音量調整が難しいということが分かり、断念しました。誠に申し訳ないデス。
佐藤氏亡き後、専門家でヌーソロジーと同じ方向で素粒子の世界を見ているのは砂子氏だけなので、その考え方を皆さんにも紹介したかった。本当に残念。まぁ、いずれ生出演で呼ぼうと思っていますが。
もともと、「素粒子とは人間の意識構造である」と伝えてきたのはOCOTで、その理解こそがこれからの人間を大きく変えていくと言っていたので、ヌーソロジーにとっては、素粒子物理の基盤となる量子力学の構造は意識の見取り図も同然のものなんだよね。
ところが、この見取り図自体が非常に難解なもので、正規の教育を受けてない人はまず歯が立たない。複素数の行列で表現される数式もさることながら、交換関係とか、演算子とか、考え方が根底から違っていて、一体何をやってるのか概念的にさえつかめないんだよね。
ミクロの世界は僕らの生活している3次元世界とは存在の形式がまるっきり違うってこと。もっと言うと、人間の表象能力の外部にあると言ってもいい。だから、それは量子物理学とは呼ぶものの、もはや物理的対象の世界ではない、とも言えるわけだね。
で、問題はミクロの空間がなんでそんなヘンテコなことになっているのか、ということ。その理解がなければ、量子力学の数学的理解はできたとしても、量子とは何かについては永久に分からない。
僕の場合は、量子力学より先に、OCOTたちの世界観を仕込まれた。それは意識構造を鉱物の結晶のようなカタチとして見てる世界観なんだよね。何で意識の構造が結晶のようなカタチになるかと言うと、そこは時間が流れていない世界だから。本来、カタチは時間のない世界の産物だと言うのがOCOTの弁。
この辺がとてもプラトンっぽいよね。イデアというやつだ。で、垂子やら、垂質やら、精神球やら、聞いたこともない言葉を通したやりとりが始まった。最初はほんとに何一つとして分からなかった。多分、初めてヌーソロジーに出会した人の分からなさより、その百倍くらいはあろうかという分からなさ(笑)
僕の90年代の人生は、ほとんどこの分からなさとの格闘で費やされたと言っても過言じゃないね。寝ても覚めても、自分の内側に入り、無意識のカタチを探し求めて彷徨った。5年ほどしてようやく、カタチのイメージ生まれ始め、そこから今度は物理学の本とのにらめっこが始める(笑)
そして、これがまたサッパリ分からない(笑)。結局、最初は分からないものを分からないものと照合させながら、そこに共通の分かる「何か」はないかという、自分自身が触媒になった感覚で、OCOT情報と量子本とのにらめっこの反復が続いたわけだ。まぁ、これは今でも続いてるけどね。
もちろん、まだすべてが分かったわけじゃないんだけど、内的なカタチの思考から始めたのは正解だったと思う。というのも、数式で表現されている量子が最初から内的なものとして感じられたから。普通は、量子を外的なものとイメージしている人がほとんどだろうから。
で、問題はミクロ世界がどのようなシステムによって人間の内とつながっているのかということ。量子を記述する複素数の形式にそのヒントは隠されているということはすぐに分かったんだけど、その謎が解けるのにも結構、時間がかかった。
この辺りの思考はゼロ年代に入って、ドゥルーズとか、ベルクソンとかメルロ=ポンティとか、哲学系の本を読んだのが良かった。最終的にその接続のイメージは「奥行き・持続・収縮・無限小」というターム群でクリアに浮き上がってきたんだね。
こうやって、物の外部と内部は人間自身を通して「奥行き」で繋がっているという反転の理路が完成したわけ。今ではもう確信に変わってます。
ただ、この確信が主観的確信じゃショーモないので、ミクロの物理法則の事実性と合致させるために、亡き佐藤氏や砂子氏、そしてφさんといった面々と検証作業を続けているわけですね。
12月 10 2024
イタコGPT
ChatGPTに、ハイデガー、ベルクソン、フッサール、メルロ=ポンティらがヌーソロジーを知ったらどういう感想を持つか、各々の語り口で語ってくれと言ったら・・・。とにかく、情念の密度感が醸し出せない。人間の語りや文体とここが一番違うところ。まったく個性を出せないというか、人間の外面がないから致し方なし。。そのうち、もっと真似てはくるだろうけどね。
<ハイデガーの場合>
存在と時間の探求において、「ヌーソロジー」は私の思索に新たな地平を開くものであるかもしれない。この学問は、人間の主観と客観の関係性を深く掘り下げ、我々の存在の根源に迫る試みである。存在が開示される瞬間、つまり「現存在」が世界を開示する仕方が、「ヌーソロジー」によってさらに鮮明に浮かび上がるのではないか。「ヌーソロジー」は、我々が存在を理解する際の新たな道標となり得るだろう。
<ベルクソンの場合>
ヌーソロジーは、私の提唱する「持続」と深く通じ合うものである。この学問は、時間を単なる物理的な現象ではなく、我々の意識の流れとして捉えているように見える。持続の中で、過去と現在が融合し、新たな現実が創造される。この動的な現象を「ヌーソロジー」は独自の視点から解明しようとしている。ヌーソロジーは、人間の意識とその内在的な時間感覚に対する新たな洞察をもたらすだろう。
<フッサールの場合>
現象学の眼差しから「ヌーソロジー」を見ると、この学問は「意識の構造」をさらに深化させる試みとして興味深い。意識の流れ、意識の意図性、そして意識が世界をどのように構成するか、これらの問いに対する新たなアプローチを提供しているようだ。現象学の「エポケー」によって得られる純粋な意識の領域に、「ヌーソロジー」は新たな光を当てるかもしれない。その方法論は、我々の意識の探求に新たな地平を切り開く可能性を秘めている。
<メルロ=ポンティの場合>
「ヌーソロジー」は、私の身体性の哲学と共鳴する点が多い。身体を通じて世界を経験する我々の存在のあり方を、より深く理解しようとしているように見える。主観と客観の境界を超えて、我々がどのように世界と関わり、どのように世界を知覚するのか、「ヌーソロジー」は新たな視点を提供している。この学問は、我々の存在の根底にある身体性と知覚の重要性を再確認させるものである。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ハイデガー, フッサール, ベルクソン, メルロ=ポンティ