6月 15 2018
〈精神化した自然〉への逆ビッグバンを!
自分と自然を一つの全体とみなせるような思考を作り出すためには、理念なるものがいかに生きて活動しているのか、それを感じ取れるような新しい知覚を生み出さなくてはならない。その知覚においては、思考は主観的であると同時に客観的でもあるような場所に出る。つまり、「見ること」が同時に「見られるもの」となっているような場所が開くということだ。その場所において、わたしたちは初めて「ある」と「いる」から逃れた「なる」の世界風景に出会うことができるのだ。
このような場所への移行の試みは過去幾度となくされてきた。たとえば、哲学者・大森荘蔵のいう「面体分岐」。大森の言い分に従うなら、見えている世界(面)は内在であり、見られている世界(体)が外在となる。これは、ヌーソロジー的に言うなら、前者は真正の奥行きの世界だが、後者は幅化した奥行きの世界だということに対応している。主体としての光と客体としての光の違いと言い換えるのもいいかもしれない。客体的光は言葉を担い、主体的光は知覚を担っている。実は、ここに「終わりの精神」と「始まりの精神」の連携がある。
この連携をカバラは「ツィムツーム(収縮)」と呼んでいる。神の時空からの撤退。物質化した空間から、精神化した空間への移行のことだ。「モナド化の身振り」と言い換えてもいいだろう。精神化した空間は、必然的に自然の精神化を要請してくる。このとき、光は秒速30万kmで時空を疾走することやめ、結晶化して光のスピンとなる。
量子論に登場するスピンとは、モナド化の発生を表現するものだ。ライプニッツが言うようにモナドには窓がない。ただし、モナドは双子として生み出される。それが光のスピンの固有値±1の意味と考えよう。ただし、モナドは回転の自由度という形で共可能性を球形の鏡の中に映し出す。そこにおいて、他者のモナドの多数性は確率(位相)として現れる。
並行宇宙とは、このときに現れる他者宇宙のことを言っているにすぎない。モナド的感性が欠如した同一性の思考がエヴァレットのような多世界解釈の幻想を作り出す。
モナドは他のモナドを映し込むことによって、また、他のモナドに映り込む。わたしたちが自我と呼んでいるものも、この〈映し-映り込み〉の結果における産物と考える必要がある。わたしに先立って、わたしをわたしたらしめているもの。それが無意識の役割であり、無意識の構造はこうして素粒子のシステムとして自然界における物質の基底に息づいているわけだ。
つまり、「なる」世界においては、人間とは始まりの存在であるということ。このイメージを取り戻そう。この視座の奪回によって、人間は人間であることから解放される。生物学的人間の中に人間のイメージを閉じ込めておく理由などどこにもないのだ。己自身の内圧を高めて、内側から宇宙を破裂させること-。
ヌーソロジーから見ると、人間という存在は、物質化した自然を精神化した自然へと逆ビッグバンさせるために、神々がセットした特異点なのである。
4月 15 2022
サロンで「スピナーズのための量子力学教室」を始めます
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか―
ライプニッツが投げかけた哲学史上究極の「ナゼ?」。この問いはひょっとして究極の愚問でもあるのでは? と僕なんかは思っている。というのも、ここには「無」を先行させてしまった一神教的な思考の臭いがプンプンと漂っているからだ。東洋人としての僕としては、一言「妙」と言ってしまえばそれで済む。そして「妙」には理由などない。
この「無」の先行性の呪いが僕ら現代人の思考を歪ませている。宇宙の始まり、地球の始まり、人間の始まり・・・元々なかったものがあるようになったという「始まり」のイメージ。果たして本当だろうか。この思考のイメージ自体がどこかおかしいのではないか。「ない」は「ある」の反映にすぎない。でも、何を考えるにつけ、僕らの思考は反映の方が先手をとっている。
OCOT情報はこうした「無」の先行性のことを「付帯質の方向性」と呼び、これが人間の意識の方向性を規定しているともいう。付帯質とは無のことであり、これは同時に否定の先行性をも意味しているわけだ。ある=肯定、ない=否定。その意味で、OCOTからすれば、人間とは常に否定性を先行させた生き物に見えているのだろう。
否定性が先行してしまうと「ない」が「ある」になり、「ある」が「ない」になってしまう。例えば、人間は時空が「ある」と考える。果たして時空は本当にあるのだろうか。ひょっとして、時空があるとされることによって、本来の「ある」が「ない」とされているのではないだろうか。その本来の「ある」が、いつも言っている「持続」のことだと考えるといい。
空間的に表現するとこの転倒の意味がよりハッキリしてくる。最初に幅(時空)があった。そこに後で奥行き(持続)が現れた。幅を見られるものの世界、奥行きを見るものの世界とすれば、これは物質から精神が生まれたと言っているも同然だ。では、その最初の幅は一体どこからやってきたのか?
―神から
これが現在の人間の思考法である。
ハイデガーのいう「存在が隠蔽されている」というのも、そのような意味だと考えるといいと思う。ヌーソロジーの文脈から言えば話は単純で、「持続としての奥行きが隠蔽されている」のである。
さて、この隠蔽された奥行きを力強く開いていくためには量子に関する知識が不可欠だと考えるのがヌーソロジーだ。この4月から物理の専門家である砂子さんにお願いして、サロンで「スピナーズのための量子力学教室」を始めることにした。量子力学と聞いて臆する必要はまったくない。ヌーソロジーの目に映る量子とは奥行きに生きる私たち自身の姿でもあるので、ここで展開されていくのは自己知としての量子論ということになる。
その意味でとても学びがいのある講座になると思う。砂子さんの講座と並行して、ヌーソロジーからの解説も合間合間に入れていくと思う。おそらく前代未聞の量子解釈が展開されていくことになるだろう。僕なんかは、従来の量子イメージがまったく別のものへと変わっていき、それこそたくさんの”スピナーズ”が続々誕生していくんじゃないかと思ってる。
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By kohsen • 01_ヌーソロジー, 03_動画 • 35 • Tags: OCOT情報, ハイデガー, ライプニッツ, 量子力学, 量子論