10月 10 2025
「引き寄せ」から「位置」へ
最近、ヌーソロジーを「引き寄せの法則」みたいなものだと誤解している人が少なくないようだ。
たしかに、意識と現実の関係を扱っているという点では似て見えるのかもしれない。
けれど、本質はまったく違う。
引き寄せは、自分の思考や感情に力があると信じて、
「こうなりたい」と願うことで、現実を変えようとする。
でもここで言う“自分”とは、
すでにこの時空の中に“いる”ことを前提とした「自己」だ。
つまり、「他者の視点で見た自分」——
社会や環境や時代が要請する「自分」という枠組みの中で、
もっとよくなりたい、もっと理想に近づきたい、と頑張っている。
ヌーソロジーは、この“頑張っている自分”に向かって、こう言う。
「いや、その“自分”は、そもそも本当の“私”ではないんじゃないか?」
ヌーソロジーが問うているのは、
「願いが叶うか」ではなく、
「私はどこから“見る”ことを始めていたのか?」という根源的な問いだ。
見るということは、ただ目で見ていることじゃない。
世界に対して、自分の“位置”が立ち上がるということだ。
その位置は、地図上の座標のことではない。
それは、「見る」という出来事が起こるために生まれてくる視点のこと。
世界が「そこにある」と思える以前に、
すでにその世界を“見てしまっている”私の根っこがある。
ヌーソロジーは、この“見るという出来事”の前面に出ることで、自分を、そして世界そのものを組み替えていこうとする試みだ。
だから、引き寄せとは真逆の方向を向いている。
引き寄せは、「世界の中の自己」を強化しようとする。
ヌーソロジーは、「世界の中の自己」から出て行こうとする。
そこに現れるのが、「位置」という概念だ。
それは、自分が“世界を見る自己”に戻るための通路。
他者の視線からつくられた“見られる自己”ではなく、
“見るという原点に立つ私”としての回復。
ヌーソロジーは、願望を叶える魔法ではない。
それは、“私という視点がどこから始まっていたのか”を取り戻すための、真の自己を引き寄せる構造哲学だ。
10月 11 2025
「量子力学と引き寄せ」はすれ違っている
最近よく目にする話に、「量子力学も証明してる、意識が現実を作ってるんだよ」というものがある。
この主張は、“引き寄せの法則”や自己啓発の文脈で使われることが多い。けれど、ヌーソロジーから見ると、この理解はちょっと危ない。
というのも、それは量子力学が突きつけた“観測の謎”を、逆方向に解釈してしまっているからだ。
たしかに、量子力学では「観測によって状態が確定する」と言われる。だから「意識で世界が決まる!」と言いたくなるのもわかる。
でもここで言う“観測”とは、私たちが普段「私が見る」や「私が意図する」と思っているその“私”を、根本的に問い直さなければならない場所なんだ。
量子力学が本当に教えているのは、「世界が意識によって変わる」ことではなく、“意識そのものも、世界と共に生成されている”という、もっと深い構造だ。
そこをすっ飛ばして、「意識で現実を変えよう!」とやると、一見ポジティブだけど、実は“時空の中で孤立した自己”を強化してしまうだけになる。
そして、この“孤立した自己”が何かを引き寄せるとき、それは自分の“欲”や“欠乏”を土台にして動いてしまう。
この状態では、確かに何かは引き寄せるかもしれない。
けれど、それは本当に“良いもの”とは限らない。むしろ、無意識下に抑圧していたものや、見たくなかった側面=影=異物が具現化されることもある。
ヌーソロジーは、この状況に警鐘を鳴らしている。それは、「意識は現実を変えられる」と信じる前に、「そもそも、私はどこからこの現実を“見ていた”のか?」という問いを立てる。つまり、“観測者としての自分”を立て直すところから始めるのだ。
引き寄せの法則が言うのは、「あなたは現実を創れる!」というメッセージ。
ヌーソロジーが言うのは、「あなたが“現実を創っていると信じていた自分”は、どこから生まれていたのかを見つめてごらん」という問い。
これを間違えると、「量子力学を根拠に、現実を操作できる!」という幻想が、思いがけず、無意識の重たいものを“引き寄せてしまう”事態にもなりかねない。
おせっかいかもしれないけれど、いま必要なのは、「意識が世界を創る」という言葉よりも、「そもそも、その意識とは何なのか?」という問いのほうなんじゃないかと思う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: 引き寄せ, 量子力学