夢見るヌース2

 ヌース理論の話が続いて申し訳ないのだが、思考を整理するためにここを利用させてもらう。

 現在,考えているのは太陽系空間と原子空間を同等に見る分かりやすいロジックについてだ。太陽を中心とする内惑星空間の構造はおそらく原子番号26の鉄原子の生成までに対応している。その情景が少しづつだが見えてきた。

 このロジックの重要な媒介項となるのは身体だ。身体と言っても肉体のことではない。肉体は身体の屍である。ミクロ=マクロの宇宙に入るためには、まずは、僕らにおなじみのこの物質的肉体を放棄しなければならない。何も死ねと言ってるのではない。世界の中でちょこちょこと動き回っているイメージの自己像を捨てましょ、ということだ。。そうした自己像はナルシス的なリビドーの所産であって、実際の自己ではない。実際の自己とは自身の知覚とは切り離すことができない存在であるがゆえに、それは身体の内部にある。もちろん、肉体の内部ではない、身体の内部である。ここが大事なところ。

 肉体とは何度も言うように、虚構された外部から見た身体のことだ、だからそれはほんとうの身体ではない。ここでいう身体の内部とは、自身の内部から感じている身体と考えればいい。自身の内部から感じる身体とは普段,僕らが世界と呼んでいるものに他ならない。自分自身が自分自身を中心として「前後、左右、上下」と呼んでいる方向。これが真の身体の骨格だ。

 前後は視覚に関係し、左右は聴覚に関係し、上下はその統合に関係する。加えて、前後は左右を観察し、左右は前後を観察し、上下はそれら両者の関係をさらに観察する。人間は世界からのアフォーダンスによってこうした観察連合としての意識的身体を獲得してきた。見ること、聞くこと。立つこと。そして、歩くこと、手を広げること。跳ぶこと。前後、左右、上下—前後、左右、上下と、この三軸に多重の襞を形成していくことで精神は自らの身体の次元の一つ一つを開示させていく。実は、物質の生成活動はこの開示の履歴と深い関係にある。

 こここでは面倒な説明はしない。一言で言えば、身体が身体自身を意識している空間とは4次元の空間である、とだけ言おう。4次元空間であるからには、ここには物理学的な時計は存在しない。記憶は同時にこの球形状の身体に重畳させられている。過去は身体の中では今現在として同時に併存しているということだ。その意味で言えば、地球上で生きている一人一人の人間の身体は4次元空間に穿たれた球状の無数の穴としてイメージできる。4次元球体。それは魂の別称でもある。

 これら一つ一つの球体にはそれぞれ固有の「前後、左右、上下」という方向があるが、ヌースがいう精神とは、それらの球体すべての「前」を集合させた力のことを言うと思っていただければよい。すなわち、全人類における見ることのすべて——これはヌースの用語でいうと「表相」の全集合体のことと言っていい。

 実は、こうした固有の前が奇跡的な一致を見せている「有り難い」一点というものがこの宇宙に一つだけある。これが精神の正体である。ここも説明はしない。皆さんでゆっくり考えてみるといい。その奇跡の一点が真実の点、と呼んでいいものなのだ。この点の力がわれわれの思考にユークリッド的点を提供している。われわれの意識に浮かぶ茫洋とした点のイメージは、その真実の点の亡霊と言ってよいものである。

 ここでいう真実の点のことをヌース理論では「形質」と呼ぶのだが、まもなく、この形質が人類の意識に目覚めはじめる。いや、もうすでに目覚めているのかもしれない。その力は水素原子核と地球中心から同時に放たれる。一つは元素生成の空間へと、もう一つは太陽系空間へと、それぞれ新たな土地の創造に向かって活動を開始することになるだろう。その活動の26段階目までの道筋をお見せするのが次回の本、ということになる。原子と太陽系は間違いなく同一のものである。