顕在化について

 ヌース理論がいう「顕在化」とは、神話的、宗教的なアレゴリーとしては「七つの玉をつかんでいく龍になること」や「七つの封印を解いていく御使いになること」にたぶん対応している。

 人間の無意識を流動させている構造体はψ1〜ψ14、ψ*1〜ψ*14という総計28個の次元観察子から成り立っている。この「28」の構成には7つのキアスム(交差配列)が内包されており、つまりは、この発見が、7つの玉や、七つの封印の解除に対応するのではないかと思ってるわけだ。4つ組の7つの階層。合計28。もちろん、潜在化においてのこれらの連結はリニアルなものじゃない。ちょうど5次以上の方程式が代数的には解けないのと同じように、第5番目のキアスムのところで水の受難に遭う仕組みがある。しかし、顕在化の方においてはある理由によって、7つの階層はすべて連続的な多様体として露になっていく。(ある理由とは言ってはみたものの、まだ、そこがはっきりとは見えないのだが。。)

 この連結を果たして行く運動が回転だ。一つの次元階層から次の階層へジャンプするためには、回転が必要とされ、ヌースではそれが精神の力として定義される。精神、すなわち回転の力は四つ組の力関係が相殺されたとき、ゼロ的な場(重心といいいます)からの第五の力の発振としてなされる。このとき生み出されるのが黄金比の本質ではないかと考えている。黄金比とは知っての通り内分比と外分比を相等しくさせる比率のことだが、この比率が意味する本当のところは、おそらく内部認識と外部認識の関係を反転させ、それら相互の対称性を作り出す精神自身の身振りにあるのではないかと思う。内部=外部、外部=内部、もしくは、受動=能動、能動=受動という相矛盾するものの奇跡的な一致。この一致によって二元論的な知性は一度解体されてしまうのだろう。例によって「陰の中の陽、陽の中の陰」といったような「太極」的な知性が、ここで介入してくるのだ。

 この視点を止核精神たる人間精神(ヌースでは正四面体とされる)にもたらしてくるのは、おそらく正20面体のイデアである。と同時に、もたらされてくるその黄金比的な次元認識が正12面体に当たるだろう。この「20」と「12」が織りなす性愛関係は宇宙の存在自体をその根底から支えている。これら両者はキリスト教的に言えば、救済力(ミカエル)と救済されたゾーエー(イエス=キリスト)の関係に当たるのかもしれない。もしくは、ペンタグラムをイエスの象徴と見れば、正12面体とは受胎した聖母マリアの姿といったところか。デュオニソス的な混沌の中で行き場を見失っていたゾーエーの力は、このとき一気に物質の内部から解き放たれ、火の力を実存の空間に向けて吹き上げる。そこに見えるのは12枚の花弁。それら一枚一枚には黄金のグノーモンが息づいている。正20面体を構成する12個の頂点は12個のペンタグラムを見下ろし、ゾーエーの無限力を絶えることのない渦として象徴化している。世界に何一つ無用なものはない。すべてのものが相等しい存在価値を持ち、すべてのものが相等しく存在に貢献している。もちろん、君も、僕も。12枚の花弁一つ一つに託された「位置の開花」という言葉にはそうした意味が込められている。

 第一の渦、第二の渦、第三の渦、第四の渦、第五の渦、第六の渦、魔法使いが杖を振って林檎を取り出してみせるように、正20面体の力は六種の空間に次々に再生の螺旋力を注ぎ込んでいく。そして、第七の渦が現れたとき、精神はその眼差しを新たな未知の方向に向けて回転させる。そこに新しい天と地、そして人間が現れる。創造とはそのようにして為される。

 顕在化とは、この第六の渦までを創造することをいう。これはψ11とψ*11が向かい合う場の創設でもある。そこでは二つの太陽(鏡)が姿を現し、互いの永遠性を讃え合う。眼下には物質的生命力の象徴である二匹の蛇がとぐろを巻いている。羽をつけた二匹の蛇と、羽をつけることを拒んだ二匹の蛇。選択はどちらでもいい。楽園の二人がサマエルに誘惑されようがされまいが、そんなことは些細なことだ。いずれにせよ、この蛇の二つの種族が次なる世界を回転させていくことに変わりはないのだから(蛇が嫌いな人はドラゴンでもいいよ)。