5月 19 2009
地球から広がる空間について、その2
●球空間を一本の線として見るような概念を作り出すこと
前回の記事に関してコメントを付け加えておきます。少し長くなるかもしれませんが、長文になった場合は分割して掲載することにします。
OCOT情報は実に難解です。その中でもマクロ空間(天体)に関する説明の難解さは群を抜いています。もちろん、現時点でも前回挙げた交信記録19950118でのやりとりのすべてが理解できているわけではありませんが、シリウス言語内に含まれている思考様式の秩序のようなものだけは何となくですがつかめてきています。ここではその秩序について紹介しながら目下のところのヌーソロジーから見たマクロ空間の見方について簡単な解説を加えておこうと思います。
ヌーソロジーにおいて精神とは対化を等化する力のことだと言ってきました。この等化運動は幾何学的には回転運動として表象されてきます。人間の無意識構造を示したケイブコンパスにおいて各次元観察子の領域がn次元空間の回転群として表現されるのも、人間の意識や無意識の成り立ちを支えている精神構造がn次元空間における双対回転の連鎖によって構成されているのではないかと考えているからです。
実際、自然界は様々な回転運動で彩られているのが分かります。素粒子が回り、DNAが螺旋状に形成され、地球も自らが自転し、また太陽の周囲を公転し、その他の諸天体が周り巡っているのもすべて宇宙精神の中に潜んでいる様々な次元の対化関係がヌース(旋回的知性)の名のもとに等化されているからだと考えるのがヌーソロジーです。素粒子に始まるミクロ方向に映し出されている等化運動に関しては『時間と別れるための50の方法』でも記したように、その秩序の在り方が徐々にですが把握可能な概念として浮上してきています。しかし、厄介なのはやはりマクロ方向に映し出されている回転です。
人間が認識しているマクロ空間とミクロ空間の関係自体も実は「対化」の関係にあるということをOCOT情報では伝えてきています。つまり、人間の意識にはミクロ世界とマクロ世界は全く別のもののように見えているのですが、OCOTの知性はそれらの関係をも同一のものの二つの異なる側面にすぎないものとして見ているらしく、結果、こういうことを平気でのたまってきます。
月の公転軌道とは何ですか?
陽子のことです。
もちろん、こうした内容を「狂気」の一言で片づけることもできるでしょう。しかし、僕にとってはこの超ド級のトンデモなさがなんとも子気味よい響きを持って聞こえてくるのも事実です。ひょっとしたら彼はほんとのことを言ってるのかもしれない。もしほんとうなら今まで培ってきた人間世界の常識なんてものは木っ端みじんに吹っ飛んでしまう。こうした言明の背後には一体どのような概念が潜んでいるのか、そのメルクマールやロジックをどうしてもマスターしたい。そんなヤジ馬的好奇心に支えられてヌーソロジーはここまで進んできたと言えます。しかし、何をどう思考すれば、月の公転軌道と陽子とが同じものに見えてくるというのでしょうか。
以前、『時間と別れるための50の方法』で4次元という方向の本質について語ったとき、物質的身体から広がっている球空間を一本の線分に見立て、そのときその線分自体が持った方向性を4次元の方向性として仮定したことを思い出して下さい。物質的身体からは確かに3次元の球空間が無限に広がっているように感じます。しかし、その広がりを身体を中心にして実際に見ようとすると事情はガラリと一変してくるのが分かります。というのも、自分を中心にした空間の広がりを実際に見るためには自分が回るしかなく、自分が回転したときに見るそれは、つねに身体における「前」という一方向でしかなくなってしまうからです。これは身体側を不動の存在と見なした場合(身体が回っているのではなく、外界が回っていると考えた場合)、少なくとも身体の周囲に確認されていた3次元の広がりというのものがすべて「身体における前」という一つの方向で束ねられているということを意味しています。そして、このときのこの「前」という「一つの方向」として抽出される方向性を4次元の方向と考えてみてはどうかと言っているのです。
このことは、眼前に世界を開示させている視野空間そのものをコンピュータビジョンのように固定されたモニター上の空間として見なせ、と言ってるのと同じです。僕らはPCのモニター上の3D映像を見るときモニターが動いているとは誰も考えません。動いているのはあくまでもモニター上に映し出された像の方です。それと同じで目前に展開している現実世界の像を3Dのヴァーチャルリアリティーのように見れば、そのモニター画面そのものとしての視野空間は不動であるという感覚を作り出すことができます。そして、このときその視野空間上に想定されている奥行き方向はもはや3次元内部の空間ではなくなることが分かります。なぜなら、視野空間自体は3次元的なあらゆる運動に対して何ら影響を受けることがないからです。つまり、視野空間上の奥行きは3次元内部には存在していないということです。ここに4次元の方向性が立ち上がります。知覚上においてはこの4次元方向に立てられた線分は「わたし」という主観のもとに世界を開示させている実存的方向にほかならないのですが、この方向のことをOCOTは3次元世界から垂上する力という意味で「垂質(すいしつ)」と呼んでいます。
さらに付け加えておくと、この垂質が持っている4次元の長さに相当する部分は物理学が用いるような「空間化された時間」のことではないので注意が必要です。確かに視野空間をモニター状に見なしたときのその奥行きの方向性にも時間は存在していると言えますが、ここでの時間は限りなく点状にまで潰されている時間であり、時間はモニター画面それ自体の薄膜の厚みとなって潰されて縮んでいます。この縮みを光速度のカタチと呼んでいいかもしれません。そこには時計の針で刻まれて行くような時間の長さは存在していません。こうした潰された時間が「今、ここ」を作り出している「人間の外面」の場所になります。つまり、過去から現在に至るすべての時間の流れが垂質の中には一括して把持されており、常に保存されているということです。時間の流れを一括して把持するような働き、これはベルクソン哲学でいう「持続」にほかなりませんが、この持続こそが人間の精神の基盤的な働きと呼んでいいものになります。その意味でヌーソロジーではこの垂質には人間の主体の基盤となる精神が息づいていると考えるわけです。次元観察子でいうψ5の領域です。
——つづく
7月 15 2009
ビートルジュース
ビートルジュースと言ってもティム・バートンが監督したお化け映画の話ではない。オリオン座の赤い星、ベテルギウスについての話だ(ベテルギウス[Betelgeuse]は英語ではビートルジュースと発音する)。先月、ナショナルジオグラフィク誌にこのベテルギウスに起こっている異変についての記事が掲載されたらしい。曰く「この15年間でベテルギウスの大きさが15%ほど収縮している。原因は不明。」ベテルギウスは赤色超巨星と呼ばれるグループに入る巨大恒星である。大きさはちょうど木星軌道と同じぐらいの大きさあると言われていた。それが何とここ15年の間に金星軌道ぐらいの大きさまでに縮んでいるというのだ(15%ほどの縮小にしてはちょっと縮み過ぎ?)。何とも不気味なニュースである。
天体物理の世界では赤色超巨星は質量が太陽の8倍以上もあるような大恒星が辿る次の進化のプロセス段階と見なされている。こうした星は中心部の核融合が鉄まで達するとその反応を停止させ、最終的には超新星爆発を起こすと言われている。で、今回のベテルギウスの突然の収縮騒ぎだが、これはベテルギウス内部の核融合が脆弱化し、今まで核融合のエネルギーによって重力との平衡を保っていた状態が星内部で崩れ出し、重力収縮が始まっている可能性を示唆している。
それにしても15年で15%の縮小とはとても天文学的な数字とは思えない早さである。おまけに研究者の話では収縮速度は年々加速しているという。天体物理の理屈から言えば、その収縮が閾値を超えれば当然のことながらベテルギウスは超新星爆発を起こすことになるのだが、そのときの明るさは最大で満月並みだという。ベテルギウスまでの距離は地球から約600光年ほどしかない。果たして衝撃波等による地球への影響は大丈夫なのだろうか?——というところまでは、あくまでも科学的見地からのお話。
実はこのベテルギウスという星、ヌーソロジーの発祥と極めて深い関係がある。1985年、僕自身、最初の超常体験を経験し、いきなり「オリオンのNOMI」と名乗る意識体からの声が聞こえてきた。その声に導かれるまま、歴史探検やら霊界探検をやらされたのだ。これは神さまのお導きだと信じて疑わなかった哀れな若造は、結果、自分自身の無意識の闇の中に潜むシャドウにボコボコにやられ、見事、発狂。しばらく廃人同様の生活を送っていた。そこで見たこと、そこで聞いたこと、それらは他の日常生活での記憶よりも遥かに鮮明に残っている。ベテルギウスの収縮のニュースを読んだとき、その記憶がはっきりと文字列として甦った。
NOMIはベテルギウスのことを「テツ」と呼んでいた。そして、この「テツ」は現在の人間の霊的な淵源であると言っていた。分かり易く言えば、ベテルギウスという天体は人間存在全体を支えている霊力の反映物だということである。廃人同様の生活を送っていた僕は、当時、冬が到来するだびに、寒空の下、オリオン座の左上隅で赤く輝くこの「テツ」を見つめ続けていた。
OCOT情報には次のようにある。
ベテルギウスとは何ですか?
垂質の等化。
OCOTと交信している当時は「垂質」というシリウス言語の意味をはっきりとつかめていなかったので、当然のことながら、この返答に含まれた意味も分からずじまいだったが、今では朧げながらもある程度の解釈はできる。垂質とは人間の個体を規定する空間のカタチが持った力のことである。ヌーソロジーに詳しい方は次元観察子ψ5のことだと考えてくれればいい。その意味で「垂質の対化」とは自己を規定する空間と他者を規定する空間の関係にある。観察子で言えば、これはψ5とψ*5の関係だ。よって「垂質の等化」とはこれら両者を相等しいものへと持っていこうとする精神の作用を意味することになるのだが、このことは精神分析的に言えば、人間の無意識の欲望を推進させている本源力と解釈できないこともない。つまり、人間の自己における無意識は他者の居所をもとめ、発芽を求め土中を徘徊する植物の茎のように、真の他者との出会いを欲して常時、盲目的な前進を余儀なくさせられているということだ。それは精神分析的に言えば、「他者の欲望を欲望する」欲望として現れる。ヌーソロジーの文脈においては、歴史や経済が見せてきた文明の発展、発達とは、すべてその無意識的欲望の展開の履歴と言い換えてもいい。
他者という存在はヌーソロジーの観点からすれば、真実の自己のことである。人間の自己はこの真実の自己へと辿り着きたいとする本能のもとに、すべての意識作用を営んでいるというわけだ。OCOT情報にいう「垂質の等化」が持ったこのような意味合いは、ベテルギウスが人間存在全体を支えているというNOMIからの情報と極めて近いニュアンスを持っている。
また、次のようなOCOT情報もある。
鉄とは何ですか。
付帯質が持った力の本質。
いつの頃からだろうか。僕はNOMIが語っていた「テツ」とは「鉄」のことでもあると思い始めていた。原子番号26番の鉄はケイブコンパス上で追って行くと、まさに、垂質の等化を行っている精神そのものの位置に当たる。
鉄の減衰——人間という時代を築いてきた自我精神の力が弱まりつつあるのではないか——それがベテルギウスの収縮と何らかの関係を持っているのかもしれない。人間の無意識が真に他者の場所へと辿り着いたとき、すべての価値はニーチェが言うように転換を始めることだろう。否定的な精神の支配は終焉を迎え、肯定的な精神のみの、すべてにおいて「然り!!」と答える全肯定の精神のみの時代が到来することだろう。そのときベテルギウスは赤い星から青い星へと生まれ変わるかもしれない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 2 • Tags: OCOT情報, オリオン, ケイブコンパス, ニーチェ, 付帯質