5月 9 2019
永遠のもとに世界を見るとき、 わたしたちは「物」になる。 「物」は永遠を孕んでいる。 それは科学的には素粒子として表現されている。 「物」が素粒子からできていることを常識とするなら、 「物」が永遠によって作られているということも、そろそろ常識になってもいい頃だ。 光は物を見るためだけに存在しているわけじゃない。 光は、本来、君が「いる」ことの証でもある。 だから、光は必ずしも物理的なものとは言えない。 光が精神的なものだからこそ、光速度では時間は止まり、空間も消え去るのだと考えないといけない。 見える光ではなく、見ること、そして「いること」としての光へ。 奥行きに永遠を見る、奥行きに自分の根拠としての永遠を感じ取る、ということはそうした光の能動性を意味する。 拡大するのではなく、縮むこと。 自分の居場所を物の外ではなく、 物の中へと移動させること。 創造=生成は、そのようにして開く。 僕たちに決定的に欠けている感覚は、 二つの永遠が出会ったとき、 そこに時間と空間が生まれてくるということ。 そして、その時間と空間が、 その出会いを物質として表現するということ。 物そのものが本来、僕と君との共同体なのだ。 宇宙はそのようにして生きている。 人間が宇宙から疎外されている、 ということの意味もここにある。 物は本来、対象ではないし、 ましてや所有されるものでもない。 この屈折した認識を是正しない限り、 宇宙はやがて人間から離れ去っていく。 僕らが今の文明に直感的に感じている危惧は、 この宇宙の離れ去りにあると、 僕なんかは思うのだけどね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0
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ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
5月 9 2019
受動的な光と能動的な光
永遠のもとに世界を見るとき、
わたしたちは「物」になる。
「物」は永遠を孕んでいる。
それは科学的には素粒子として表現されている。
「物」が素粒子からできていることを常識とするなら、
「物」が永遠によって作られているということも、そろそろ常識になってもいい頃だ。
光は物を見るためだけに存在しているわけじゃない。
光は、本来、君が「いる」ことの証でもある。
だから、光は必ずしも物理的なものとは言えない。
光が精神的なものだからこそ、光速度では時間は止まり、空間も消え去るのだと考えないといけない。
見える光ではなく、見ること、そして「いること」としての光へ。
奥行きに永遠を見る、奥行きに自分の根拠としての永遠を感じ取る、ということはそうした光の能動性を意味する。
拡大するのではなく、縮むこと。
自分の居場所を物の外ではなく、
物の中へと移動させること。
創造=生成は、そのようにして開く。
僕たちに決定的に欠けている感覚は、
二つの永遠が出会ったとき、
そこに時間と空間が生まれてくるということ。
そして、その時間と空間が、
その出会いを物質として表現するということ。
物そのものが本来、僕と君との共同体なのだ。
宇宙はそのようにして生きている。
人間が宇宙から疎外されている、
ということの意味もここにある。
物は本来、対象ではないし、
ましてや所有されるものでもない。
この屈折した認識を是正しない限り、
宇宙はやがて人間から離れ去っていく。
僕らが今の文明に直感的に感じている危惧は、
この宇宙の離れ去りにあると、
僕なんかは思うのだけどね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0