「奥行き」と『2001:A Space Odyssey』

A Space Odyssey

奥行きと幅について考えてると、まるで目の前の空間にポッカリとワームホールが空いたようで、どんどん深みに引き込まれ、おまけにグルグルと旋回ひねりが入っていくものだから、脳みその関節がガタガタに外されて、今まで抱いていた共通感覚=良識というものが木っ端みじんに粉砕されていく。

そこで今日も、存在論的妄想をひとつ。

まず、奥行きは時空ではない。では一体どこなのか——奥行きは空間的には無限小の中にしか指し示せない場所であり、時間的には「すべての時間を懐に抱いたところ」としか言いえないような非-場所である。そして、なおかつ「それは何か」と問うこともできない。というのも、それは「それ」といったような対象ではもはやないからだ。自らが自らをあらしめているもの。その存在のため他のものを一切必要としないもの。まさに哲学的な実体とも言えるような何ものかである。よって、そこに主体が持った意識の志向性などといった野暮ったい概念を持ち込むことももはや許されない。いわば奥行きは空間の即自体でもあり、時間の即自体でもあり、もっと言えば、認識、思考の即自のような場所ではないかと感じるのだ。このことに感応したとき、以前は、「これぞ真の主体だ!!」などと言って舞い上がっていたのだが、奥行きの深みに居づけば居づくほど、この非-場所を単に「真の主体」とか「永遠」とか安易に呼んでいいものかどうか。。

ドゥルーズは『差異と反復』の前書きで次のようなことを言っている。「現代哲学のなすべき仕事は、〈時間的-非時間的〉、〈歴史的-永遠的〉、〈個別的-普遍的〉といった二者択一を克服することにある」と。そして「時間と永遠性よりもさらに深遠なものとしての反-時代的なものを発見すること」と。

奥行きの本性は確実にここでドゥルーズがいう「反-時代的なもの」につながっているような感覚がある。反-時代的というのは別に時代に抗って自然に戻ろうとか、そういうことを言ってるわけじゃない。世界がこれまで進んできた方向に対して、その大本からUターンすることである。神秘主義的に言えばプロティノス的転回とでもいおうか、つまり、所産的自然としての精神の営みから能産的自然としての精神の営み、つまり世界を創造していく能動的諸力への変身を果たすということだ。ニーチェ=ドゥルーズならば、迷わず力への意思と呼ぶに違いない。

と、ここで、いきなり『2001:A Space Odyssey』のオープニングが。。。リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」のBGMとともに、月の向こうからゆっくりと地球が現れてくる。ダントン、ダントン、ダントン、ダントン♪〜そして今度はその地球の向こうからまばゆい光を放ちながら太陽が昇ってくる。。ダントン、ダントン、ダントン、ダントン♪〜嗚呼、なんという黙示録的ビジョン。

月の力を太陽の力へとメタモルフォーゼさせる地球という名の原初的精神。反時代的なものとはまさにこの「始源」へと突然変異したところの地球のことなのだろうと思う。奥行きに沈み込んでいた永遠としての月の潜在的諸力が、奥行きの開示と共に地上でうごめいていた知覚や言語や情動や思考のすべてを飲み込んで、太陽の内包性へと接続を果たしていく。わたしたちはそこに放たれるそのあまりの光の透明性にもはやモノを見ることはなくなり、観ることそのものへと変身を遂げていく。

ここに地球という天体の意義、つまり大地の意義がドゥルーズのいう〈時間的-非時間的〉〈歴史的-永遠的〉〈個別的-普遍的〉といった二者択一を克服するものとして立ち上がってくのだと思っている。