12月 15 2025
真理は厳然と存在する
他者視点化と自己視点の間において、世界そのものが物質と霊という関係で美しく反転している。それがヌーソロジーの論理的帰結ということになる。
つまり、私たちが「物質世界」と呼んでいるこの現実は、実は“他者視点化された霊”にすぎないということだ。
同様に、「霊」とは“自己視点化された物質”であり、物質と霊は本質的には同一のものの反転像なのだ。
この二重の視点構造によって、世界は一つの絶妙な対称性の中に置かれる。——表に見えている「もの」は、すべてが他者視点を通じて構成された霊の外皮であり、逆に、私たちが内的に経験する「自己」は、物質が自己視点の中で再統一された霊の組織体にほかならない。
ゆえに、霊と物質は本来、別の世界に属しているのではない。それは、同一の空間がどちらの視点から照らされているかの違いにすぎないのだ。
ヌーソロジーの視点からすれば、この反転構造が時空そのものの生成原理であり、意識と世界、主観と客観、死と生、そして霊と物質のすべてを架橋する唯一の論理として現れてくる。
この論理構造の中に、現代人が失った「霊性」の真の意味が宿っている。それは神秘的でも超自然的でもなく、むしろ空間そのものの幾何学的な反転として、冷徹な美しさをもって横たわっている。
私たちは、いまこの場所で、霊としての空間に住まい、物質としての空間を見ているのである。そしてその逆もまた、常に成り立つ。




12月 16 2025
科学的世界観は、そのすべてがフィクションである
人間の感性=ψ10は霊の「像化」を生むが、それはあくまでも自己側においての構成に限られる。知覚が主観的であるという意味だ。——見えている世界は、本来、内的なものなのである。
一方、人間の思形=ψ9は語・概念によって像を“固定”し、外化する働きと言える。外の世界とは言語が生成を切り取って、その断面をつぎはぎすることによってあしらえたハリボテにすぎないということ。
つまり、感性は、霊的構造の〈反映像〉として“現れの側”にあり、言語は、その現れを〈記述可能な他者の構造〉として“外化”し、最終的にそこに「物(=物質)」としての存在感覚を与えている。
ここで重要なのは、物質とは私たちが実際に経験している「見え」そのものではないという点だ。物質としての存在感覚は、象の「見え」が言語によって他者と共有可能となった構造の中に“閉じ込められた”ときに一つの欠如として生まれている。
ここから何がわかるかと言うと、「言葉以前に物がある」とする近代的自然観は全くの虚偽である——ということ。
よりわかりやすく言えば、科学的世界観は、そのすべてがフィクションであるということだ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0