科学的世界観は、そのすべてがフィクションである

人間の感性=ψ10は霊の「像化」を生むが、それはあくまでも自己側においての構成に限られる。知覚が主観的であるという意味だ。——見えている世界は、本来、内的なものなのである。

一方、人間の思形=ψ9は語・概念によって像を“固定”し、外化する働きと言える。外の世界とは言語が生成を切り取って、その断面をつぎはぎすることによってあしらえたハリボテにすぎないということ。

つまり、感性は、霊的構造の〈反映像〉として“現れの側”にあり、言語は、その現れを〈記述可能な他者の構造〉として“外化”し、最終的にそこに「物(=物質)」としての存在感覚を与えている。

ここで重要なのは、物質とは私たちが実際に経験している「見え」そのものではないという点だ。物質としての存在感覚は、象の「見え」が言語によって他者と共有可能となった構造の中に“閉じ込められた”ときに一つの欠如として生まれている。

ここから何がわかるかと言うと、「言葉以前に物がある」とする近代的自然観は全くの虚偽である——ということ。
よりわかりやすく言えば、科学的世界観は、そのすべてがフィクションであるということだ。