3月 1 2016
「もの」を蘇らせる場所の思考へ
OCOTのいう「人間型ゲシュタルト」というのは、分かりやすく言うなら「物質」という概念で宇宙を見るものの見方のことと言っていい。別の言い方をするなら、3次元意識と言ってもいいかな。人間は、この3次元という「型」を土台にして知覚や認識を組織化し、この組織化がそのまま低次の自我のあり方に直結している。
だから、「自我を乗り越える」ためにはこの人間型ゲシュタルトを解体し、その効力を無効にするしか手立てがないのだけど、ただ解体しただけでは人間は白痴化するしかない。
この解体は、川瀬氏が言っていたように、受動的なものと能動的なものの中点に意識が入ったときの力の状態のようなものだろう。受動的なものから免れるという意味では、これは愛すべき白痴化状態とも言え、ノンデュアリティーという今流行りのスピ系の思想の症状もこれに該当しているように思える。OCOT情報にいう「位置の中和」というやつの本性かもしれない。
「受動的なもの」から「能動的なもの」への反転の中点に由来するこの白痴化の症状は確かに神の射影のようなものには違いないが、中点は反転の蝶番のようなものに過ぎず、それ自体は力と方向を持つことはできない。つまり、人間型ゲシュタルトを無効にすることはできず、低次の自我の勢力を抑えることはできない。
そこで、全く別の新しいゲシュタルト、「能動的なもの」におけるゲシュタルトが必要とされてくるわけだ。このゲシュタルトが出現することによって、能動(創造)-受動(被造)という真の宇宙の二元性というものが見えてくる。OCOTのいう「変換人型ゲシュタルト」の「変換」とは、この能動性への変換のことを意味している。
要は、物質が拠って立つ3次元意識という「型」を作り出したより高次の能動的な場の「型」へと意識を変換するということ。そういうことを言っている。
このあたりは日本の古典芸能と同じで、とにかく「型」が重要視されるのだ。内容は後から付いてくる。まずはその型を見出し、その型を習得しなくてはならない。型の中にすでに技芸の精神というものが表現されているということだ。
この変換人型ゲシュタルトというやつは「魂の鋳型」と言っていいようなもので、この型が見えてきてこそ、初めて、魂の内実というものを受容する用意が意識に整う。それは、人間が3次元という型において表象を確かなものにしているのと同じだ。内容物の背景には「型」が必要なのだ。
この魂の「型」、もしくは「場所」のことを、古代の日本人は「もの」と呼んでいたのではないかと強く感じている。「ものごころ」「もののふ」「ものおもひ」「ものさみしさ」「もののけ」「ものがたり」と言ったときの「もの」だ。つまり、古代における「もの」とは、物質や3次元が生まれ出てくる母胎のような場所ではないかということだ。
だから、世界にはまず「もの」があり、そこから「こと」が起こり、その後に3次元や時間や物質がやってくる、というのが正しいのではないかと思う。現在の人間においては、この順序が逆転し、まず、3次元や時間があって、そこに物質があり、そして「こと」が起こると考えている。まさに倒錯の極みをいっている。
それもこれも、「もの」がどこかへ消え去っているからだ。
山本哲士氏の本を何冊か読んで感じ出したのは、実は、日本語の精神というものが未だにこの「もの」の場を巡って生きているということだ。つまり、日本語は宇宙の母胎にしっかりと根付いている。この母胎のことをOCOTは「ヒト」と呼んでいる。
時代を「もの」の時代へと反転させていく責務が日本語をしゃべっている日本人にはある。わたしたちはこれから、この「もの」を意識に浮上させるための「型」を作っていく方向へと文明の舵取りをする必要がある。ノンデュアルなどといった「疲弊した西洋の東洋への郷愁」なんかに止まっているわけにはいかない。日本語がそれを許さない(笑)
「もの」の精神が息づく日本は、実は東洋でも西洋でもない。原子洋だ(ヌース用語の「元止揚」をかけたシャレね^^)
ヌーソロジーが提唱する複素空間認識とは、この「もの」の場所の「型」を思考によって想起させるための、ポスト量子論的アプローチと言っていいだろう。
3月 4 2016
君よ、内なる螺旋となれ!!
ドゴン神話では、創造の神はアンマと呼ばれた。アンマの座はオリオン座にあるとしている。アンマによる創造のストーリーは以下のようなものだ。
・アンマは宇宙の創造にあたって自らの内部にフォニオという種子を形成する。
・フォニオは物質の起源と言われる。
・フォニオは双子であり、回転している。
・フォニオはこの世で最も小さいものの象徴であるが、すべてのものを入れるための倉でもあるとされる。
・そのため、フォニオが〈最も偉大な穀物〉であるといわれる。
・フォニオは七階層の振動を作り出している。
・フォニオは22のヤラ(殻のようなもの)からなる。
「フォニオはこの世で最も小さいものの象徴であるが、すべてのものを入れるための倉でもある」―ヌーソロジーの読みでは、フォニオとは素粒子のことのように思われる。最も小さいものが最も大きいものを含み持つというモナドロジックな性質がフォニオにはある。幅化してしまった奥行の延長性から、もとの奥行き本来が持った持続性への転換。この空間の身振りに自らが意識的になること。
フォニオは七段階の振動を作りながら自らの内部で螺旋状に成長していく。この七段階の振動を発展させていくのは種子の生命の本質とされる言葉の活動である。言葉の力によって種子がその内部で成長を遂げていく。
言葉はその意味で〈先導-記号〉となっている。
十分に種子が育つと、そこからこの種子は螺旋状の旋回の方向を反転させフォニオを双子化させて世界を開いていくとされる。ここにドゴンの空間論の基本となる「7×2=14」という数が配置される。この「14」はドゴン神話の根幹を支える数となっている。それは次のような彼らの儀式の言葉として残っている。
・アンマは浪費したあとで整える。アンマはひとつ。それは14の空間。
・アンマの名を唱えることは空間を一つに保つこと。
・アンマの名はすべてのものを保ち守ること 。
・アンマは一回転するごとに14の天と地を作る。
・アンマよ、上に七つ、下に七つ、アンマは14の世界を回された。
・上に14、下に14のアンマ。
「フォニオは七階層の振動を作り出している」-この7階層の振動は、おそらく物理学的には11次元超重力理論における「7つの余剰次元」と呼ばれるものだろう。この余剰次元が内部空間として素粒子のシステムを作っている。この7つの余剰次元は人間の意識をイデア界へとつないでいるエーテル的な虹の階梯のようなものだ。ヌーソロジーはこの階梯を次元観察子ψ1~14として削り出す。
余剰次元はわれわれの無意識を構成している。余剰次元を思考に浮上させるためには空間に潜む捩れを見出さなくてはならない。わたしたちは空間に潜むこの捩れと引き換えに世界から主体へと静かに遷移している。この捩れは存在におけるクロスロードであり、そこにおいて、わたしたちは時空という同一性の世界から魂という差異の世界へと差し向けられている。
この捩れは今までは潜在的なものとして存在していたものであり、唯物論的に制度化された思考の中ではなかなかそれを見出すことは困難だったが、それは一つの超感覚的知覚として確実に浮上し始めている。
ドゥルーズは言っていた。マクロな知覚は、ミクロな知覚の間に確立される微分的関係の産物なのである。それゆえ意識の中に知覚されるものを生み出すのは無意識の心的メカニズムである―と。
われわれの無意識は無限小で蠢いているのだ。空間と時間として現れる延長性は無限小領域の従属物であり、それらは二次的なものである。われわれの本性は無限小の住人として生きているということ。そこに戻るために、今、「奥行き」が開いてきている。
空間と時間の中に立ち現れた物質という有限性の中に、己の精神の無限を内包させていくこと。有限の線、有限の面、有限の塊の中に己の精神の無限の進行を感じとること。内なる外、外なる内へと己自身の思考の姿形を襞のように捩り、永遠を織り込んでいくこと。そしてその肌理の表情を味わうこと。
今から新しく生み出されてくるこのような精神の切り開きの運動を、ドゴンのフォニオの発芽になぞらえて「内旋=インボリューション(in-volution)」と呼んでみるのもいいかもしれない。re-volution(革命)とは、本当はこのin-volutionのことを言う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: アンマ, ドゴン, フォニオ, 次元観察子