死の向こうに何があるのか

多くの人は、世界の「有(あること)」をあまりにも当たり前に信じている。
そして、自分が死ねば、その「有」から切り離され、“無”になると思い込んでいる。
でも、実はそれは逆かもしれない。死によって“無”に帰るのは、自分ではなく、この世界のほうなのだ。
本当の自分は、世界を裏側から支えている生成の“有”そのものとして、あり続ける。
宗教が言っていた「魂の不滅」も、こうした感覚に近いだろう。
ただ、それを空間構造として明晰に開いていくのが、ヌーソロジーの使命なのだと感じる。

こうした「無」への誤解は、ハイデガーにも見て取れる。
彼は、存在を「無」と呼んだ(前期)。
そして、存在者の方を「有」と見なし、その有を差し出すもの──es gibt──を「無」と名付けた。だがそのとき、存在の「有」としての強度は失われてしまった。
生きられる生成の力が、否定の影のなかに押し込められたと言ってもいい。
そして現存在は、ただ「無に開かれたもの」として語られ、ついには国家や民族といった人間的な制度に、存在の拠り所を委ねてしまう。
本当は「無」と呼ばれたその場こそが、生成の「有」が脈打つ空間であったのだ。ヌーソロジーから見れば、存在は無どころか、持続の生成そのものだ。

ハイデガーの言葉が確かに深淵を開いたことは疑いがない。
しかし、その思考のコンパスは逆を指していたのではないか。
存在は無ではなく、有。
人間の死は、死ではなく、むしろ生成。
そこには、差異の流れが待っている。

無や死の観念をこの方向へと舵を切り直すこと──
それが、能動的ニヒリズムとしてのヌーソロジーの役割だと思っている。