2月 5 2016
魂の浮上
霊的なものが潜在化してしまった状態のことを魂と呼ぶ。だから、だから、魂が自覚されるとその自覚自体が霊になる。霊とは思考するものと思考されるものが一致を見る「実体」のことであり、存在するために他に何者の力も借りないもののことをいう。
現在の人間の宇宙観、価値観はこの実体をすべて見ないようにすることで成り立っている。だから、心許なく、脆弱で、いつも不安や恐怖といった否定的感情に振り回されてしまう。OCOT情報はこうした人間の状況を「力が確実化していない状態」という言い方をする。
人間のおしゃべりがほとんどが他人の噂話や悪口で占められているのも、ほとんどの人がこうした不安や恐怖に駆り立てられているからであり、他者を否定することによってしか自分の存在を肯定することしかできないからだ。「お前は間違っている――だからオレが正しい」「あんたはブス――だから、わたしは美しい」というように。
こうした否定先行型の他者依存というのは単に心理面だけで片付けられることじゃない。空間の見方、時間の見方、物質の見方、言葉の在り方、死生観をはじめ、ありとあらゆる場所に根を張っている。これは言ってみれば、一つの体制なのだ。「人間」という体制、と呼んでいい。この人間という体制の別名が自我である。
「自我を超える」とか簡単に口にする人たちがいるが、それはニーチェ風に言うなら、すべての価値の転倒を起こさない限り無理な話なのだ。すべてを手放すことではなく、すべてを解体するのでもなく、すべてを裏返すこと。
これが能動者の身振りというものだろう。
この裏返しの行為、実践の中にほんとうの思考というものがある。宇宙を生成させている実体としての思考がある。このほんとうの思考によって姿を現してくるものこそが自我を作り出している「霊」、すなわち真実の自己だ。
2月 12 2016
天使たちの痕跡を追いかける思考について
反転認識は複素平面上では90度の回転として現れる。つまり、今まで奥行きを実軸(幅)として見て固定していた意識を、虚軸(奥行きそのもの)へと戻すということ。そこに永遠が現れてくるんだね。
その意味で言うなら、現在の僕たちは、自他ともに奥行きを左右方向、もしくは上下方向に固定して意識を活動させている。そこに出現しているのが時間と空間の世界だと考えるといい。奥行きを幅として見ているんだね。
量子力学でミステリーとされている波動関数の崩壊もこのことからすぐに意味が分かる。物理学者たちが観測と呼ぶものは、粒子を時空上で客観的存在として捉えるという意味だ。これは奥行きを実軸に固定するという意味に等しい。
点を認識させるものとして知覚空間の中でグルグルと回っていた複素平面の回転[点を感覚化サセテイルモノ]が、虚軸を幅側に向けストップさせ、自らを時空に落とし込む。そこに粒子の観測が起こるわけだ。
波動関数というからには、素粒子は何か得体のしれないものが回っているように考えられているわけだが、虚軸世界、つまり、持続空間から見れば回転などしてはいない。それらは永遠の幾何学体として形象化している。ここで展開されているカタチが古来より神聖幾何学と呼ばれているものの世界だと考えるといい。
わたしたちは普段、何気に世界を知覚し認識しているわけだが、その背後にはわたしたちに世界を知覚させ、認識させているものたちの聖なる純粋持続の王国がある。そして、時間と空間の中では、彼らはわたしたちに知覚され、認識されるものへと姿を変えている。それが物質と呼ばれているものの本性だ。
このイメージを通して自然を見よう。それがほんとうの自然(フィシス)というものだ。鉱物には鉱物の天使たちが、植物には植物の天使たちが、動物には動物の天使たちが宿っている。
ヌーソロジーが素粒子の描像を執拗に追求しているのも、素粒子がこの天使世界への入口になっていると考えているからだと思ってほしい。この扉は思考によってしか開くことができない。思考というと語弊があるかもしれないが、それは空の思考、反転した思考、死の思考という意味で、通常の思考のことではない。
「世界をすべて内在に変える」ということの本意は、この思考の眼差しでもって物質の世界を貫いていくことにある。そこに立って初めて、わたしたちは正しく神について、正しい神について語れるようになるのだと思う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: 奥行き, 波動関数, 素粒子