11月 27 2015
イシスの作業――円の内部と外部の分割(差異の顕在化)
福山で話し忘れたので補足しておきます。
複素空間認識を通して「見る空間」と「見られる空間」の反転関係を図示すると下図のようになります。「見る空間」がブルーの部分、「見られる空間」がレッドです。
「-i」に観察の位置を想定して下さい。この配置がグルッと回ると、ブルーとレッドが円の内部と外部できれいに二分されるのが分かります。
ここでの複素平面の回転は観測者の自転を意味しています。中心点は位置の統一化が起こっているところで、イマージュがすべて重なり合って発生しているところです。
観察者の自転によって分割された単位円の内部と外部の関係は、平たくいうと、自転を行なったときの観測者の「前」と「後ろ」の関係です。
わたしたちは「見られる」空間のみで空間を概念化しているので、「見る空間」がこのように内包空間であることに全く気づいていないのですね。ここで生まれている内包空間の構造をしっかりと概念化していくと、精神と素粒子は美しい秩序をもって合体化してきます。
「ミクロ(持続の世界=心)」と「マクロ=時間と空間の世界」が目の前で二重化して重なっているという意味が、これから徐々に多くの人に理解されてくるようになると思います。空間認識の劇的な変化がまもなく起こってくるということです。
この内容をピラミッドテキストは次のように端的に記しています。――アヌビスは水平な円であり、これにより「目に見えないもの」、すなわちネフテュスと、「目に見えるもの」、すなわちイシスが分割される。この円は光と闇の境界に存在し、光と闇に共有されている(ブルタルコス)。
カタカムナがいうように素粒子をココロと呼ぶなら、僕たちの世界観や人間観がココロの実在性をいかにおろそかにしているかが分かるよね。ココロをカタチあるものとして復興させていくこと。それがイシスの作業なんだよね。素粒子は物質じゃないよ。僕らのココロの基盤となっているものなんだ。
物理学も哲学も宗教もスピ系も単に表現の多様性の中で反目し合っているだけ。互いが互いを批判し合っても何も生み出さない。すべての知識は自我の鎧にすぎないということを再確認しないとね。その鎧を外していくための純粋思考の通路を、まっさらな一つの魂となって作り出していかないといけない。
12月 4 2015
高次の知覚器官の獲得のために
「われわれが対象を知覚するのはわれわれの内ではなく対象の内においてである」 –ベルクソン『思想と動くもの』
ベルクソンが彼の卓越した直観で言い当てた、この事象の在り方の真実をわたしたちは知性によって理解できるようにならなくてはいけない。われわれは対象の外部にいる存在ではない、対象の内部にいるのだ。そして、このベルクソンの哲学的直観を裏付け、さらにそこから成長していく内的空間の幾何学というものが存在している。
この幾何学は神秘学的にはエーテル体の幾何学と言っていいものだ。シュタイナーであればエーテル空間の幾何学と表現するかもしれない。エーテル空間の幾何学とは持続体が持った幾何学のことだと考えるといい。純粋持続が真の主体の異名だとすれば、それは「見るもの」を組織化している幾何学と言っていい。
人間は幾何学を空間的にしか思考しない。プラトンのいう完全な三角形や円や球という常住不変のイデアにしろ、そこには依然として空間の表象がつきまとっている。イデアを持続の空間として見る思考が抜け落ちているのだ。
幾何学を決して「見られるもの」の中で思考してはいけない。幾何学の本質は「見るもの」そのものが携えている形相にあると考えなくてはいけない。精神の形相というものが存在しているのだ。それが高次元の幾何学が意味していることだ。そこは「見られるもの」たちのように尺度に支配された世界ではない。
数学の世界にトポロジーが出現してきた理由も、この持続体が息づく場所の論理を表現するための思考を人間の知性のもとにもたらすためだと考えよう。一体、こんなことを研究して何の意味があるのかと思われている現代数学の様々な研究群も、人間がこれから進むべき空間を前景化して、予見しているのだ。
シュタイナーは確か時間が空間化した世界のことを「アカシヤ界」と呼んでいた。持続体の空間とはまさにこのアカシヤ界のことと言っていい。そして、この持続体もまた捻れや、切断や、交差や、融合、階層化といったような運動の形態を持っている。これらは高次元空間の図式のようなものには違いないが、これらについてこれらとともに人間が思考を行なっていくことは、従来の図式的思考と決して同列に扱われるべきではない。
人間が行なう図式的思考は「モデル」にすぎないが、純粋思考が図式化していく高次の空間とは「イデア」である。これはシュタイナー風に言えば、おそらくエーテル知覚を行なうための知覚器官の形成のようなものなのだ。この知覚器官が作り出されなければ、おそらくエーテル体の生態も見えてくることはないだろう。
「カタチとは見られるものではなく、見るもののことです」–by OCOT
ヌーソロジーが提唱する複素空間認識とは、まさにこのエーテル知覚を行なうための知覚器官の組織化のことであり、ここで認識されてくるものがまさにOCOTのいう「カタチ」のことなのだ。
素粒子とは、その意味で、わたしたち人間が内在性のうちに保持している第一の精神器官だと言えるだろう。
時間の空間化は、神秘家の内なる魂の在り方を変えてしまいます。「時間」がもはや存在しなくなるのですから。–R・シュタイナー
今回の「シュタイナーとヌーソロジーのコラボ本」では、こうした内容について詳しく論じた。読者はシュタイナー霊学が現代物理学と矛盾なく接続する現場をあからさまに目撃することになると思う。お楽しみに。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 0 • Tags: イデア, エーテル, シュタイナー, プラトン, ベルクソン