9月 18 2015
フォニオの匂い
前回の大阪レクチャーでは1時間だけドゴン神話の話をした。ドゴン神話自体、膨大な体系を持っているので、とても短時間で語り尽くせるものではないのだけど、その中でも僕が一番大事なポイントではないかと感じているフォニオ(phonio)の話に時間を割いた。フォニオとはドゴンの創造神アンマが作り出した宇宙の種子のことを言うんだけど、配布したレジメには、このフォニオについて次のようにまとめてみた。
・アンマは宇宙の創造にあたって自らの内部にフォニオという種子を形成する。
・フォニオは物質の起源と言われる。
・フォニオは双子であり、回転している。
・フォニオはこの世で最も小さいものの象徴であるが、すべてのものを入れるための倉でもある。
・フォニオが〈最も偉大な穀物〉であるといわれるのはそのためである。
・フォニオは七階層の振動を作り出している。
・フォニオは22のヤラからなる。
ドゴン神話では、このフォニオは七段階の振動を作りながら自らの内部で螺旋状に成長していくと言われているんだよね。そして、この七段階の振動をひとつひとつ成長させていくのは、種子の生命の本質とされる言葉の活動とされている。十分に種子が育つと、そこからフォニオは螺旋状の旋回の方向を反転させて、今度は自らを双子化させて世界を開いていくとされるのね。ここにドゴン族においてもっと重要な聖数とされる「7×2=14」という数が生まれてくる。この「14」は同時に創造神アンマが宇宙を創造するに当たって、回していく空間の数とされているものでもあるんだよね。
このフォニオをどのようなものとしてイメージするかは、もちろん人それぞれ自由でいいと思うんだけど、僕の場合は、やっぱり真っ先に現代物理学が展開している素粒子論が頭に浮かんだ。それは現代科学の知見として確かに物質の起源となっているものでもあるし、右巻き/左巻きといったスピンを持つように、それは双子的で、数学的には回転も行っている。
現在の物理学の最先端研究はM理論と呼ばれる理論で、この理論は11次元で定式化されているのだけど、その中に11次元超重力理論というのあって、この11次元というヤツは、僕らが外在と呼んでいる4次元時空と小さくコンパクト化した7次元に分けることができるんだよね。このコンパクト化した7次元は7次元球面という高次の球面で構成されていて、僕のイメージの中ではこの「7次元球面」と、ここにある「フォニオが持った七階層の振動」というのが深く関係している。
で、問題は四番目に書いた「フォニオはこの世で最も小さいものの象徴であるが、すべてのものを入れるための倉でもある」ってところ。ここがフォニオの匂いを感じるために最も重要な箇所なんだよね。最も小さいものなんだけど、それは同時にすべてのものを包み込める倉のようなものにもなっているということ。
素粒子が集まって物質ができ、この現象世界が展開している、というのは簡単にイメージできるよね。そこで、それをイメージしているのが人間ってことになるんだけど、そうやって宇宙全体を一つのイマージュの中に包み込んでいるのは人間の意識そのものだよね。ここなんだよね。ここ。目の前のパソコンだって、窓から見える街並だって、空を照らす太陽だって、逆に言えば、人間の意識が全部包み込んでいる。つまり、人間の意識はすべてのものを入れるための倉になっているということなんだ。そして、その倉が物質の起源だとするなら、宇宙は内在の環で実は閉じているってことになる。嗚呼、スピノザよ!!って、思わず叫びたくなる。(笑)
創造の始まりと終わりの結節が「人間」だと言っているのはそういう意味だと思うといいよ。そして、フォニオとしての人間は言葉の活動を通じて、この種子を何とか発芽にまで持っていこうとその歴史を一生懸命、進めていく。そして、最後には、再び、始まりのものとなって「14」の空間を回していく。。。
そういうストーリーになっている。
終わりのものから始まりのものへの反転の身振りは、それこそ、ルシファーライジングのようなイメージだね。土中は暗くて、息苦しくて、辛くて、希望も何も見えないかもしれないけれど、発芽が起これば、真っさらな純白の裸体に戻って、7つの扉が鏡合わせで開いていき、誰も、実は双子だったんだってことが分かってくる。。七階層の魂の鼓動。七つの音階。そして七種のリズム。ドゴンのダンスが浮かんでくる。。
そういうイマージュを全部詰め込んで、レクチャーではドゴン族に伝わる無数のトング(宇宙のエネルギー図のようなもの)や彼らのスナップ写真を集めて、スライドショーを作ってそれをエンディングに使ったんだよね(BGMは皆さんおなじみ、エニグマの「Return to innocence」)。
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間に、今でも尊敬して止まないマルセル・グリオールとジュルメーヌ・ディテルラン女史の若き日と老いた日の姿を挿入させてもらった。これは余談だけと、何を隠そうワシ、若き日のジュルメーヌに淡い恋心を抱いてしまったこともあったのでした。でへ。嫁、ごめん。笑
時はいつも通り流れ、人々は皆、老いていくけれども、魂は永遠にイノセンス。フォニオの発芽はもう始まっていると思うよ。
9月 25 2015
愛すべき反転の旗手アラカワ――『幽霊の真理/絶対自由に向かうために』/ 荒川修作-小林康夫
僕が荒川修作氏(以後、敬意を込めて「アラカワ」と記す)を知ったのは1995年のことだった。今でもよく覚えているけど、その年、アラカワは岐阜県の養老に養老天命反転地という巨大な公園施設を作った。僕のアラカワとの遭遇は、この「天命反転」という言葉を通してだった。僕の中の反転魂がすぐに反応したのだ(笑)。開園の噂を聞き、すぐに、この新世紀の聖地となるべき場所(当時はそう思っていた)へと赴いた。
アラカワは日本で新進気鋭の現代美術家としてスタートし、瀧口修造のススメで1960年代にアメリカに渡り、生涯、ニューヨークを拠点に活動を続けた。出世作は『意味のメカニズム』というヤツで、デュシャンやハイゼンベルクといった錚々たるメンツに認められ、以後、知る人だけは知っている「世界のアラカワ」となった。
アカラワの反転イズムのキーワードには、本人もよく口にする通り、「遍在の場」「ランディング・サイト」などといったものが挙げられる。アラカワが建築、都市空間もしくは居住空間の設計を通して何をやろうとしていたのかというと、まずは「ブランク(空白)」を出現させること、と言っていいだろう。「ブランク」とは「原初的でまっさらな場所」といったような意味だが、これはヌーソロジーの奥行概念にも似ていて、遠近法的、俯瞰的視線からは逃れた、人間の意識が言語や既成概念に汚される以前の、言ってみれば、主客未分離状態における純粋経験場のようなものと言っていい。アラカワはこの空間をギブソンのアフォーダンス的な手法の延長線上に、従来の外界と身体との触発性の中に引っ張ってこようと果敢に実験を続けた。まっさらなブランクから、一体、見る者はいかにして作られてくるのか――このテーマがアラカワの全作品を一貫して貫いている。
このアワカワなる荒川修作氏に関して、一つだけ忘れがたい思い出がある。僕は1999年に『シリウス革命』という本を書いたのだが、その本に養老天命反転地のことも少しだけ書き入れた。それで、当の荒川さんにも、「あなたの他にも反転のことをマジで考えている男がここにいるんですよ」ということを知らせたくなって、再度、養老天命反転地を訪れ、出版されたばかりの『シリウス革命』を持参し、そこのスタッフに是非、荒川さんに渡して欲しいと頼んでおいた。
すると、かなりの月日が経って、突然、荒川さんからFAXで返事らしきものがきた(笑)。もちろん、本のお礼など書いてあるはずもない。そこには自分を揶揄している知識人たちに対する皮肉のようなものが、酔っぱらいが書いたような半ば読み取り不明の文字で書きなぐってあった(笑)。まぁ、全体としては自分の意見に対して僕に同意を求めているような文章だったので、彼なりに、僕を仲間と認めてくれたのかもしれない。普通の知識人なら、チャネリング本で、かつ出版元が「たま出版」とくれば、そのままゴミ箱行きになるのだろうけど、荒川さんはさすがというか、内容をちゃんと読んでくれていたようだ。でなきゃ、見ず知らずのオカルト本の著者に返事など寄越すはずがない。
そのときから、僕にとってアラカワは「愛すべきおっちゃん」であり続けている。これほどキュートなおっちゃんを僕は生まれてこのかた見たことがない。この『幽霊の真理』/ 荒川修作VS小林康夫対談集にも、こうしたアラカワのケタはずれのキュートさが全面に爆裂していて、最高に笑えたし、楽しめた。正直、お近づきになりたいタイプの人ではないが、端で見ている分には、ほんとうに痛快な人物ではないかと思う。ほんとうに惜しい人物を日本は失った。合掌。
さて、この本の中でのアラカワ発言の数々だが、以前感じたのと同じく、アラカワはヌーソロジーが見ているものとほぼ同じものを空間の中に見ているように感じている。ヌーソロジーはそれを何とか素粒子のトポロジーとして抉り出し、存在として相互了解可能なものにしようとしているのだけど、アラカワはおそらくそのトポロジーをより直裁的に感じとっていて、それを建築という形で実践化し続けている、といったところだろうか。それは、この対談本でアラカワが口にする次のような幾つかのフレーズからも容易に窺い知れる。僕にとってアラカワは常に反転イズムの大先輩なのだ。
小林 ~中略~しかし、もし個という意識そのものが消えてしまえば、目的とか、目的がないという問題すらなくなるだろう、と思います。
荒川 だから、そこで、位相的な個、いわゆる新しい「共同性」としての「場」が必要なのですよ。「向こう側」が、「こちら側」にも、そしてまったく方向の違った「場」にも出現し、使われることによって、初めて、その「無限の渦のようなエネルギーの流れ」をコントロールすることができるのです。そのエナジーを反転させるための構築作業を、私たちは進めているのですよ。p.255
荒川 イメージというのはほんとうに不思議な現象です。あらゆるものがほとんど同じところにあるんですね。遠いものと近いもの、低いものと高いもの、重いものと重くないものが、同じところにある。そして私のイメージは、全部、私が隠しちゃっている。そうすると、それを明確に開けさせるためには、どうしてもディメンションが落ちていくところがいるんですね。いま挙げた三つの対は、ここにある場というものを作り上げている条件なんです。それは、あまりにも抽象的で、無意識で、あまりにもケイオティックで、誰も手をつけなかったことです。p.162~163
荒川 いいですか、ぼくのような人間がいったい何をやろうとしているのかというと、極小と極大を同じところに置こうとしているんですよ。だから、町といったら国家を変えようとしているわけ、建築といったら生命を変えようとしているわけ。 p.241
アワカワのビジョンはどのようなカタチであれ、引き継がれなくてはならない。
※下写真は、かつてのヌースアカデメイアの仲間たちと訪れたときの天命反転地。左より小野満麿氏、高橋徹氏、砂子岳彦氏、大野章氏、そしてワシ(2003年)。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, 06_書籍・雑誌, 08_文化・芸術 • 0 • Tags: 天命反転地, 素粒子, 荒川 修作