5月 1 2015
地球と月の密約
ヌーソロジーの基本中の基本の概念に「円心」という概念がある(下図参照)。これは簡単に言えば「円の中心と円周は入れ替えが可能」という概念だ。早い話、意識の反転を象徴したカタチと考えるといい。
二つの円が交差したところにできる部分は、原始キリスト教では「ヴェシカパイシス(魚の浮き袋)」と呼ばれ、キリストが宿るところとされていたらしい。「魚」は人間の霊性の象徴でもあったから、それが、このカタチの力によって水の中から浮き上がってくる、ということなんだろうね。
円心はシュタイナー的にいうなら物質空間とエーテル空間(物質空間が反転したもの)の関係を最もシンプルに形象化した図形と言える。
交差する部分(ヴェシカパイシス)の意味は円心関係が等化されることの意味を表していると考えるといいと思うよ。認識がS側にもa側にも偏らず、両者の対称性を持つことができている意識のカタチの意味だね。
ヌーソロジーの思考は約25年前にこの円心からスタートを切ったんだよね。
今、対象の位置をS、自分の身体の位置をaとして、この円心関係を見てみよう(下図参照)。おそらく、誰もが簡単にこの円心のイメージを作れるに違いない。しかし、「もし簡単にイメージできたとするなら」、おそらく、君の円心概念は大きな誤りを犯している。。
点Sに無数の対象が重なって見えているかい?
というのも、点aから見た円周上には無数の対象が見えているはずだから、その円周が中心点化した点Sにおいては無数の対象が重畳して存在してないといけない。そう見えたとき、君はキリストの何たるかが分かってくるはずだよ。
ちなみに、ヌーソロジーでは円S(左側の円)を「位置の等化」、円a(右側の円)を「位置の中和」と呼んでる。中和側が人間の意識なので、円aはすぐにイメージできるのだけど、円Sは等化側なので無意識化しているんだよね。だから、それを浮上させるのが難しい。。
それが浮上してくると、今まで物質と呼ばれていた対象は「もの」へと変身するよ。古代の日本人たちが感じ取っていた「もの」。月に向かって「もの」思いに耽って、「もの」悲しい表情をしていた、あのかぐや姫の「もの」語りを思い出そう。
自分の身体の自転が同時に対象の周りの公転に見えたとき、ほんとうの「もの」が浮上してくる。ラカンでいうなら、これがS=エス(無意識の主体)の位置だね。aは想像的自我の位置と考えていいかな。
この円心関係がダイレクトに物質世界に投影されているのが、地球に対する月の自転と公転と考えるといいよ。「次元が構成されている」ということ。
地球がS、月がaだね。月は自らの自転と公転を等化しているということ。つまり、エス(無意識の主体)を知っている。
もちろん、この関係は、今度は太陽系へと展開されていくのだけど。。
天体たちは、ただ、むやみやたらに土塊として回っているんじゃないよ。それらの本質は僕ら人間の内在性の中にある精神の次元の連動性を表現しているんだ。もうすぐ、それが見えてくるよ。「もの」の時代がやってくる。。
5月 8 2015
次元、カタカムナ、もの。。。
物理学は空間の次元を線分の直交性で見ますが、この次元観は忘れましょう。本当の次元とは「球」でみないとダメです。「球」=「霊(たま)」と言ってもいいですが、次元とは精神が形作っているものであって、物体としての3次元が形作っているものではないんですね。
そのためには、線と球体を同じものとして見ることのできる認識を作らないといけません。
一番分かりやすいのは、球体としての物体と視線の関係です。目の前でこの物体を回転させたとき、視線は物体が持っている球状の空間をすべて含み持つことが分かります。つまり、物体の空間においては球だったものが、視線の空間では線へと変換されているということです。この球体→線という以降は、視線の空間、つまり、「見る」ということが起こっている空間は、物体が形作っている空間よりも次元が高い、ということを意味しています。
次に視線を回してみましょう。そこには新しい球空間が出現してきます。自分の周囲の空間です。しかし、視線自体は常に身体の「前」方向を向いているわけですから、身体にとってはその球空間は一本の線にすぎません。ここでも、球体が線へと変換されていることが分かります。
こうして次元は線→球体→線→球体→線………というように、球体を次の次元の線へと変換することによって次元を上昇させていきます。
このような認識で空間が見えてくると、空間の収束性と重畳性というものがハッキリと意識に浮上してきて、空間に内在しているほんとうの次元構造というものが分かってきます。カタカムナではこうした収束性と重畳性のことをタバネタチ(=収束性)とカサナリタチ(=重畳性)と呼んでいるようです。
この「本当の次元構造」というのが素粒子構造です。4次元時空というのは、むしろこの本当の次元構造が全く見えなくさせられている状態です。
その原因は、時空では無限遠点が抹消されているからです。無限遠点が抹消されているという意味では、時空は次元が存在していない世界と言ってもいいでしょう。
「無限遠点が抹消されている」というのは、観測者が空間に含まれていない、という意味です。
タバネタチ=空間の収束性は、物理学では波動関数の表現空間、スピン空間の表現空間など、それぞれ表現の違う複素空間で表されています。
カサナリタチ=空間の重畳性の方は複素空間の虚軸と実軸の直交性と時間と空間との直交性の重なりの中に表現されて行きます。
この辺りの仕組みをカタカムナは「トキ・トコロのマリ」として表現しているようです。
この「トキ・トコロのマリ」の無限の重合性が「もの」を構成していきます。無限遠点を含んで認識されているものが「もの」で、無限遠点が全く認識されずに時空に表出している「もの」が物質と考えるといいと思います。「もの」と「物質」は全く違う存在です。
「もの」においては内部と外部は等化されていて、「もの」は自らの内部性を外部へと反転させて、外部から自分を見るような場所を送り出しています。それが肉体として現れている自我の位置です。その意味で言うなら、自我は主体ではなく、「もの」が自分を外から観察するために設けた場所にすぎません。
つまり、「もの」が自我において「もの」を見て、考えているのです。「ものごころ」というやつですね。
しかし、現在、この「もの」が「もの」本来の場所に戻ろうとし始めている感覚があります。この「もの」への回帰感覚を切り開いていくことができるのは、日本語の精神ではないか、と最近はいつも、文字通り「もの想い」にふけっているのですが、あまり理解されないので「ものさみしい」想いで過ごしています(笑)
By kohsen • 01_ヌーソロジー, カタカムナ関連 • 0 • Tags: カタカムナ