5月 20 2016
女なるものへの生成変化―
人間という生き物はどうしても意識に起こっている出来事のすべてを「自分」という枠の中に括りたがる習性がある。いわゆる人間としての自己意識というやつだ。しかし、実はこの自己意識というものをリードしていっているのは精神的個というよりも社会的個と言った方がいい。
わたしは父でなければならない、母でなけれではならない、教師でなければならない、上司でなければならない―etc。ポジションは何でもいい。言葉の中にしか生きることのできない人間はこうしたポジションを確立することで自らの個体性を確保する。しかし、それは同時に精神的個が剥奪されている状況でもあるのだ。
現代人が「私的」の意味でよく使用するプライベート(private)の語源を調べてみるといい。この言葉は本来、「(社会的立場を)奪われたもの」といったような否定的なニュアンスで使われていた。肯定的な意味に転じたのはおそらく近代以降のことだろう。
社会的立場を持たなければ人間とは呼べない―人間には相変わらず、こうした古い父性的な考え方が優勢で、そこに個体のアイデンティティーを置きたがる習性がある。人間の個体性が名にあり、共同体が名を与えるのであるから、それは当然の成り行きと言ってもいいわけだが。
こうした類いの自己意識を存在論的病の形態として断罪したのがニーチェだった。つまり、ニーチェは普通にいう人間の自己意識を力の反動=否定性として生じた受動的ニヒリズムの産物と考えたということだ。この中で精神的個は逆説的な意味での[private]、つまりは否定的なものを剥奪されたもの、として細々と生きている。
フロイトも同様に社会を原抑圧の場と考え、この否定的なものを剥奪された[private]をエスと名付け、「エスがあったところに自我をあらしめよ」と宣言し、精神分析の手法を打ち立てた。
実のところ、社会的個に同一化を余儀なくされた精神的個の力ほどたちが悪いものはない。というのも、この力は否定性を否定しようとする二重否定の情念としてのたうちまわるからだ。自分の人生を呪うことがそのまま社会を呪うことに直結する病の病。いわゆる、あらゆる「悪」の生産様式がここにはある。
しかし、一部の宗教のように「個は幻想です」などと言って、社会的個の意識をマヒさせようとしてもそれは不可能だろう。わたしたちがまず手をつけるべきは、社会的個と精神的個の明確な区分である。それができて初めて、この主従関係を根底からひっくり返す根源的反転性を見出すことができる。そして、こうした思考だけが、肯定に基づいた世界の産出を可能にする。
そして、ここからが一番大事なところ。
この根源的反転性は自我意識の中には決して回収されてはならないし、また、回収できるものでもない。だからこそ、わたしたちは「全く別物の意識」を現在の個的意識と並行させて作り出していく必要があるのだ。彼を決して「わたし」という人称の内に括ってはならない。そして、この名のない彼を忍耐強く育てていけば、やがて彼は人間を母と慕うほんとうの意味での神へと成長していくはずだ。宇宙的胎児を新しく身籠ること。母親になること。
女なるものへの生成変化―とは、このことを言う。
5月 24 2016
君よ、精神のアーキテクトたれ
記憶の実在感を取り戻そう。記憶は魂の力能だ。「過去は過ぎ去って今はもうない」というのは、現在の傲慢だ。むしろ、過去の方が去来する現在を見続けているのである。その意味で、存在しているのは現在ではなく、過去である。過去の濃度を取り戻すこと。そこに主体のフランチャイズを置くこと。
この時間的な重心移動は同時に、例の観点の球面化と連動している。主体を世界の中におくのではなく、世界を主体の中におくイメージ。観点を世界に包まれた点として捉えるのではなく、観点を球面化し、逆に世界をその中に包み込むイメージ。このとき出現してくる球体を文字どおり球体として知覚できる認識を鍛え上げていくこと。それが魂と呼ばれていたものに他ならない。
人間の空間認識は一方的に物質方向に開きすぎている。これは比喩なんかじゃない。ダイレクトな空間知覚の問題として言っている。主体が世界を包む空間側においては、すべての位置は同じ位置なのだ。その不動の位置感覚がわたしたちが「記憶」と呼んでいるものの正体だ。
物質として開かれた空間と、記憶として閉じた空間。この相互に反転した二つの空間の差異が見えてくれば、どちらが生の実体であるのかはすぐに判別がつくことだろう。物部の民たちが生玉(イクタマ)と死返玉(マカルガエシノタマ)と呼んだ二つの玉の関係がこの両者にはある。
生玉(イクタマ)を取り戻すこと。それは魂の浮上であり、浮上した魂は霊の発芽となる。
こうした表現がオカルティックに聞こえるなら、哲学の言葉に置き換えてもいい。ここでの話はライプニッツ=フッサールのラインを辿れば、自己のモナド認識と言っていいものであり、この位相に立って初めて思考は先験的な相互主観性、相互モナド認識の場を実体的に形成できるようになる。それが物理学がスピノル場(クォークのアイソスピン空間)と呼んでいるものと考えるといいだろう。
わたしたちはここにおいて、「位相─微分─射影─アフィン─ユークリッド」という幾何学のヒエラルキーを逆に辿り、最も深い霊的幾何学の場へと到達し、精神のアーキテクトとしての能力を持つに至る。
思考は創造空間=死後の空間を開くことができる。嘘は言わない。もちろん、それが完全に開くまではかなりの時間はかかるだろうが、人間の意識はその方向へと向かう転機を迎えている。
まずは、物質側へと開いた空間から、記憶側へと閉じている空間に自らの生の重心を移動させよう。それがヌーソロジーが活動している場所である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: スピノル, フッサール, ライプニッツ