5月 27 2009
地球から広がる空間について、その3
●身体空間を絶対不動のものとして見ること
不動の身体という場所に出て「前」を見るとき(さっきも言ったようにヌーソロジーではこれが4次元空間(正確には4次元の回転軸)に入るという意味になります。次元観察子ψ5の位置です)、そのとき感覚化されている身体上で相互に直交しているように感じられる前後、左右、上下という三つの方向性は、身体をどのように運動させようとも決して入れ換えることのできない独自の方向性をそれぞれが持っていることが分かります。前-後はどうあがいても前-後ですし、左-右は常に左-右ですし、上-下は絶対的に上-下として君臨しています。これら三対の方向性が意識の成り立ちに対してどのような役割を演じているかについては人によって感じ方は三者三様かもしれませんが、たとえばシュタイナーは前-後軸を感情が働く位置とし、左-右軸を同じく思考の働く位置、上-下軸を意思の働く位置としています。これはヌーソロジーが前-後軸を想像界的軸、左-右軸を象徴界的軸、上-下軸をそれら両者の交換ならびに統合軸と見ることととても似ていると言えます。ヌーソロジーではこうした身体内部において意識が感じ取っている3軸によって感覚化されている身体空間を4次元に始まる二段階の直交性(単純にユークリッド空間として考えればこの空間は6次元の空間ということになります)として考えています。
前後軸——4次元
前後軸+左右軸——5次元
前後軸+左右軸+上下軸——6次元
です(下図1参照)。
前々回まで7回にわたって書いた記事『ラス・メニーナス』で詳説した内容は、この絶対不動の身体空間における前-後、左-右、上-下という三つの方向性が人間の意識発達に対してどのような役割を果たしているのかを現代思想の側面から簡単にまとめたものだと言えます。実際、フーコー、ドゥルーズといったポスト構造主義の思想家たちはフッサールの現象学が模索した超越論的な意識構造や、さらにはフロイト-ラカン派の精神分析などが著した無意識構造に関する理論の大方を踏まえた上で、近代的自我が持った自己同一性の解体に果敢に挑みました。彼らが共通して問題としているのも、上下方向の高みに立って世界を俯瞰している近代自我に内在化する権力的な視線についてです。地球を宇宙に浮かぶ一個の天体のように見おろしている視線。こうした視線によって近代以降の人間は人間自身を地球というちっぽけな惑星に生きるアメーバのような生き物として表象しています。こうした視線は僕ら現代人の意識の奥底にも深く食い込んで、自身の自我境界を悪い意味で頑に防衛している力にもなっているのです。この視線を解体し、実存としての生きられる空間に「わたし」の意識をどのようにして再帰させていくかが現代思想にとっての一つの大きなテーマになっていると言えます。
さて、「地球から広がる空間」と言った場合、人間の内面領域(外在世界)においてはそれはモノから広がっている空間と何ら変わるところはありませんが、人間の外面(不動の身体空間)という世界を考慮すると大きく事情が違ってくるのが分かります。なぜなら、地球上にはそのような人間の外面を持っていると想定できる身体がそれこそ無数存在させられているからです。わたしにとって他者の身体からの広がりはそれこそ物体から広がる3次元と同じようなものとして見えていますが、他者はその3次元の広がりをおそらく「わたし」同様に意識的な広がりとしても感じていることでしょう。とすれば、単に3次元と見なされている地球からの広がりには他者が感じ取っている身体空間(6次元空間)が重なりあって存在しているということになります。
逆に人間の内面を考慮して、他者の身体を単なる物体と見なしても、この場合さほど事情は変わりません。多少恣意的になりますが、他者を大地に直立して活動している物質的身体と考えてみることにしましょう。他者が地球上を自由に動き回った場合、そのときの他者にとっての前-後と左-右という方向性は地球を覆う球面方向に集約されているのが分かります。このとき「地球から広がる」と表現されている空間は他者の上-下方向に対応していることになります。つまり、地球から広がる空間の方向性は他者の身体においては他者がどのように動こうとも上-下方向となっており、これは絶対不動としての他者の身体から見た上-下方向と全く同じです。このことは人間の外面を考慮して見たときには地球(の原点)から広がる空間は4次元時空というよりも6次元の空間として見直さなければならないということを意味しています(下図2参照)。
そして、このような絶対不動の他者が地上には無数と言ってよいほど存在させられているわけですから、この6次元空間は無数の他者空間を許容する自由度を含みもって多様体化していると考えられます。つまり、「わたし」にとっての地球から広がる空間は他者の全体の外面が息づいている空間として見ることが可能だということです。その意味では、この時点で地球から広がる空間は6次元空間の回転群と並進群を重ねあわせているということになるのかもしれません。
——つづく
5月 27 2009
地球から広がる空間について、その4
●超越論的という言葉の意味について
前後がちょっと逆になりましたが、ここで前回少し触れたフッサールが提唱した「超越論的な意識の構成」という内容について少し捕捉の説明を加えておきます。ここではポイントだけを手短にまとめておきます。
フッサールが創始した現象学という哲学の分野はデカルトやカントの流れを組んだ思考の枠組を持っています。その考え方のキーワードとなるのが僕もよく使用する「超越論的」という言葉です。超越論的というと経験を超越した神のような立場から物事を考えることと受け取られがちですが、それは「超越的」の意であって決して「超越論的」の意ではないので注意が必要です。「超越論的」とは超越的とはむしろ正反対の意味で、経験以前の場所に立って意識が成り立つ条件を問い正していく思考的立場のことを言います。例えば、目の前に何らかのモノがあるとして、僕らはそれを自然にモノとして認識しています。「超越論的」とはこのようなモノの認識がいかにして意識に成り立っているのか、それを認識しようとする、まぁ簡単に言えばメタな認識の立場に立った思考的態度のことを言います。この認識は通常のモノの認識を超えてはいますが、と言って、神のような超越者を認識することではないのが分かります。
こうした超越論的な思考方法を取ると、モノがなぜモノとして認識されるのかに始まって、それを見ている主観としての「わたし」が「わたし」という主観として認識される条件、さらには客観世界が客観と認識される条件、挙げ句の果ては、その客観を取り入れて思考しているメタな主観としての「わたし」が成立する条件等、つねに超越論的に思考を連鎖させていく必要性に駆られていくことになります。こうした思考態度をその限界にまで徹底させたのがフッサールの現象学です。
ということで、フッサールが行った超越論的思考の足跡を簡単にまとめておきます。
フッサールは世界が客観性(自体性)をもった世界として僕らの認識の中に現出してくる条件を次のような三つの段階で考えました。
1、時間意識における超越
これによって意識は現在を超えることができ、現在を起点に過去や未来を相対化することができます。
2、空間意識における超越
これによって意識は空間的に隔たった様々な対象の見え姿の想像を可能とすることができます。
3、他者意識における超越
時間的超越も空間的超越もある意味では主観内部の意識形成にすぎず、この第三の超越によって意識は初めて主観を超越することが可能となり、他者との相互了解のもとに客観という合意形成に至ることができてきます。
そして、ここが重要なところなのですが、このような3段階の超越を経験しても尚、意識はつねに「わたし」の意識であり、そこでもなお一つの主観を保ち続けているのが分かります。このような超越論的統覚を果たした自我意識をフッサールは単なる心理学的な自我と区別して超越論的自我と呼びました。
参考までに、これらフッサールが辿った超越の内容をヌーソロジーが用いる次元観察子に対応させると次のようになります。
1、時間意識における超越………ψ3(時間意識を超越できる場所の条件を規定すること)
2、空間意識における超越………ψ5(主観における知覚的統覚が起きている場所を規定すること)
3、知覚的統覚の超越………ψ7(客体の位置が生まれる条件を規定すること)
4、他者意識における超越………ψ9(客観の位置が生まれる条件を規定すること)
5、超越論的自我の位置………ψ11(主観が客観を取り込める位置が生まれる条件を規定すること)
現象学の考え方ではこのような条件が揃って初めて、わたしたちの前に客観世界という場所が現れ、さらにはそうした客観を自らの中に統合した超越論的な統覚者である近代的人間としての「わたし」が意識として現象化してくることになります。つまり、ヌーソロジーは現象学が明らかにしようと試みた意識における客観的世界の成立の根拠を単に言語による哲学的観念の中に探るのではなく、それを高次元の幾何学的な空間構造に置き換えて表現、把握することを目的としているとも言えます。
では、なぜ、そのような幾何学的な置換を模索する必要性があるのか――ここがヌーソロジーが「ヌース(創造的知性)」を標榜する所以となるところでもあるのですが、それは、ヌーソロジーがその先験的(人間の経験以前にすでに存在していると考えられるもの)とも言える意識空間の構造をそのまま物質の起源と目される素粒子世界の構造の中に重ね合わせて見ることが可能ではないかと考えているからです。もし、それが是となれば、物質生成の始源を人間の無意識構造に想定し、物質空間と精神空間を一体として見なせるような創造空間の中に人間の理性が介入を果たしていくことになります。そこに到来してくる超理性と、その超理性が育む超感性——この両者を持った者たちがヌーソロジーが「トランスフォーマー」と呼ぶものたちのことなんですね。
——つづく
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: カント, フッサール, 素粒子