5月 30 2014
ルーリアの遺産——ユダヤ的一神教における反ユダヤ的思考
神の外部への光の流出と、内部へのその再帰的な光の回収。この循環がネオプラトニズムの流出論の骨子だったように記憶しているが、ルーリアカバラはこの内部性への光の回収のルートが粉々に粉砕されていると考えた。これがルーリアのいう「器の破壊」の意味するところだ。
なぜ、器は破壊されてしまったのか——ルーリアに拠れば、それはコクマー、ビナー、ケテルという最上位の容器の光輝があまりに強烈で目映かったためだと言われる。強い光は失明を伴う。光の流出の過剰が光の回収のルートを見失わせてしまったというわけだ。
OCOT情報はこのカバラ的事件に関して次のように伝えてきている。存在はオリオン、シリウス、プレアデスという存在の基底となる力が三つ巴で流動している。「光の流出」とはオリオンがプレアデスと結合する場所性のことである。光の諸力は一気にプレアデスへと流れ込み、プレアデスはこのオリオンからの光を受容する。
ここに能動的光と受動的光という二つの光の種族が生まれ、この二つの諸力による結合が生じる。この両者間の結合力のために、プレアデスからオリオンに至るまでの中間領域であるシリウスは一つの残響のような形でかすかな痕跡しか残さない。このシリウスが言うまでもなく、光が回収されるルートのことである。
オリオンとプレアデスの結合部分はカバラのセフィロト(生命の樹)で言えばそれぞれケテル(最も下位のセフィラー)とマルクト(最も下位のセフィラー)に当たる。カバラにおいてはこのマルクトは「神の花嫁」とも呼ばれており、最上位のセフィラーであるケテルはこのマルクトと一つの頑な性愛で結ばれているわけだ。
そして、ここで交わされている神とその花嫁の間の盲目的なエロスの力が、結果的に、光の回収への循環方向を抑止する力となっている。存在の父性による母性の拘束とでも言おうか、ユダヤ的一神教の精神(神と人間の契約というイマージュ)の由来がここにあると考えていい。
ルーリアはその意味で言えば、ユダヤ内部から現れたこうしたユダヤ的思考の刷新者でもあり、ルーリアカバラはそれまでのカバラに対しての反カバラ的運動と言っていいように思う。ケテルは常にマルクトと共にあるのであって、地上は至高の天と結びついているのだ。となれば、それは反復して到来する「原初」の場所と言ってもよいことになる。だからこそルーリアは言う。原初の光においては悪が混じっていた、と。
ここでいう「悪」とはマルクト以外のセフィロトが全く見えなくなってしまい、世界はすべて物質でできていると考える物質的思考のことと考えていいように思う。ルーリアカバラではクリフォト(殻)と呼ばれているものだ。
このクリフォトは今風に言えば時空のイメージに近い。マルクトに流れ込んでいるケテルの一者的な力がこの時空の同一性を担保しているのだが、これはマルクトを覆う一者の遺影のようなものと考えていいだろう。グノーシスにいうデミウルゴスだ。
では、神が再び光の回収を行うための容器の再生はいかにして行われるのか——当然、そのためにはケテルとマルクトの結合を断ち切らなくてはならないのだが、これがルーリアカバラでは「神の撤退」という表現で言い表されることになる。ここに生起するのがツィムツーム=収縮というルーリアが提起する革新的な概念である。神は創造の原初に一点へと引きこもるというのだ。
時空の中に囚われの身となっている光を文字どおり収縮させて、容器の再生へと向かわせること。OCOT情報はこうしたルーリアの概念を「核質の解体」と呼んている。「核質」とはオリオンとプレアデスの結合位置に生まれている結節の力のようなものである。この「核質」を解体させることを同時に「人間の意識の顕在化」とも呼んでいる。
OCOT情報の文脈では核質が解体を起こすと「無核質」という力が生まれてくるのだが、この力が働く場所がシリウスと呼ばれている。この場所性はルーリアカバラでいうイエッツェラー(生成界)に対応している。イェッェラーの中心となるのはティファレトと呼ばれるセフィラーだ。伝統的にはこのセフィラーは「太陽」として解釈されている。つまり、シリウスが太陽を生成する場所になっているということだ。
まぁ、いろいろと書いてきたが、こうした神秘主義的な概念を象徴体系のもとにただひたすら思考したとしても、それこそ現代の科学的世界観から見れば、超越的トンデモにしか見えないだろう。象徴は方向を指し示すことはできるが、そこに進ませる力が欠けている。概念が不足しているのだ。概念を生産しなくてはならない。それもマルクトの内部から、マルクト自身のはらわたを突き破るような形で。科学的知識の内部から科学的知識を突き破るような形で。
ヌーソロジーが語る「奥行きの覚醒」は、このルーリアのツィムツームとダイレクトにつながっている。光を受け取るのではなく、光を与える者へと変身を遂げていくこと。光から逆光への転身をはかること。奥行きの覚醒とは能動的光の発振が始まっている位置のことでもあるということ。
ルーリアカバラに関する私見については以前ブログの方でも詳しく書いたことがあります。長文ですが興味がある方は参照して下さい。



 
 
 

6月 6 2014
レミニサンスの場所としての奥行き
奥行きはありのままで無限小の世界であるといつも言ってるのだが、ここでいう無限小というのは決して微小な距離を意味するわけではない。それはもはや時間や空間で捉えられる場所ではないという意味だ。
ではそこはどのような場所なのかと尋ねられて、いつも「純粋持続が息づく場所だ」と答えているのだが、これがどうも分かりにくいらしい。そりゃそうだ。ベルクソンなんて今の時代、哲学に興味がある人間以外、誰も知らない。
何とかこの純粋持続の感覚をイメージ豊かに伝達できないものかいろいろと考えている。「心の中でずーと続いているように感じているもの」と平易に表現しても心理的な持続にしか解釈されないだろうし、無意思的記憶と言っても難解だろうし、記憶の容器と言っても通じないだろうし、ここクリアせんとね。
流れ行く時間を水平の時間と呼ぶとすれば、無意志的記憶の時間は垂直的時間と表現してもいいのではないかと思う。事実、この軸は時間軸にさえ直交していることだろう。水平方向に絶えず立ち現れては壊れていく現在を垂直方向にパイリングして現在を重層的に構成していく異空間の深みのようなもの。
わたしたちはたぶん眠りにおいてのみその深みにダイレクトに触れることができている。そこには時の流れの全記憶がコロイドのように乱交状態を作りながら記憶の容器の皮膚を刺激し、わたしたちを忘却から目覚めさせようとしているように感じる。
レミニサンスの場所としての奥行き。
「存在」と聞いたときは空間の広がりではなく、常に時間の深みのことを意識しよう。ここには過去形などといったものはない。時間の深みがただ永遠の現在としてある。その感覚を常に意識し続けることによって、徐々にレミニサンスの空間が開いてくる。
フォロワーのA氏からの質問——レミニサンスとはなんですか?
レミニサンス(reminiscence)というのは回想、追憶の意味ですが、哲学では「無意志的記憶」といった意味で使われます。無意志的記憶とは忘却されたイデア界の記憶、アイオーン(永遠世界)の記憶のようなもの。プラトンの想起説に基づいています。
レミニサンスに関してはプルーストのあの有名なマドレーヌ菓子の話があるのだけど、その話は感覚とアイオーンとの繋がりを語っている。たとえば、ふと立ち寄った小料理屋て食べた芋の煮物の味が生まれ育った故郷の思い出を突然フラッシュバックさせることがある。そのとき何とも言い知れぬ幸福感が漂う。
その幸福感を単に懐かしさに心が和んだ、といったような心理的なものとして捉えるのではなく、諸感覚の記憶同士が互いに分ちがたい関係を持って襞のようにして永遠の現在の中で繋がっている場所があり、その場所の出現が一時の至福感となって浮き上がってきたのだと捉えること。魂との接触。
それを幾何学的に彫塑したものが位置の統一化の場所としてのψ5に当たる。観点が球面化した空間。メモワールの器。奥行きがそういうものに見えてくれば、対象がつねに無限数の記憶の襞を陽炎のようにまとって息づいていることがイメージされてくるはずです。
魂と諸記憶とのこのような関係を物理学は「ボソンは同じ状態に無限個入ることができるが、 フェルミオンは同じ状態に 1 個しか入ることができない」などといった色気のない表現で語る。
素粒子に概念を孕ませなくてはならない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0 • Tags: ベルクソン, レミニサンス