2月 8 2006
ヌース理論サイトの掲示板「カフェネプチューン」を閉鎖することに決めた。 いろいろな感慨もあって、シリウスファイルの第1ページに数年ぶりに目を通す。 わたしも少しは成長したのかもしれない。 書かれていることが手に取るように分かる。。。 狂人による走り書きとして読んでいただければよい。
——シリウスファイル19891122雑感
地球とは精神の源泉である。 精神とは実のところ、幾何学における点の振る舞いなのだ。 いかにしてこのような理念的存在は規定されるのか。 それはおそらく現代物理学の最先端の中で露わにされ始めている。 ペンローズが語るツイスター。。。 S^7/S^3→S^4→R3.1。。。 7次元球面の中で同一視されたS^3。 おそらく、これが点のイデアの正体である。 点が模像を作り上げ、その模像がまたイデアへと回帰する。 精神にはそうした王位継承の密儀が存在する。 ペンローズの理論の本質はそこにある。 人間の個体とは、そこから散種された精神のつぶてである。 人間とは—— 交差するものに与えられる位置。 そこに精神の種子は植えられる。 交差するものとは感性と思形——。 思形が時空の広がりとして、ローレンツ群を用意し、 感性が主体の多様体としてのSU(2)を用意する。 これは神秘学的に言えばエーテル体とアストラル体の別名である。 両者は個体存在の父と母となる。 コンパクト化されたものとされていないもの。 母は卵子のように「一」に凝縮し、父は精子のように「多」に拡散する。 こうして主体的強度の場と客体的延長の場が、末端性器のために用意されることになる。 意味と言語の拮抗、そして、すべての経済活動も、こうした幾何学体の上で運動しているのだ。 交差するものに与えられる位置——。 天使が地上から消えた後、 表相の等化により精神は形質へと変質する。 光が実存から分たれる位置が生まれるのだ。 ここから点=精神は個体に精神の射影としての幾何学を用意する。 デカルトやニュートンはその先駆的使い手であった。 本来は外部を覆うはずだったものの内部への陥入。 僕らの水の受難と洗礼が此処に始まった。 バロック的反転による精神の見事な裏返り。 マヤの撤退。 オゴの侵入。 オイディプスの悲劇。 ナルシスの哀愁。 葦舟の上で泣き叫ぶ水子。。。 すべてが嘘で塗り固められていく。 こうして、地球はやせ細った夢遊病者のようなコギトたちの王国となる。 コギトとは精神の倒錯によって生まれた「悩める者」である。 モノのケの囚われの身となった「病める者」である。 彼は偽物の翼を広げ、 偽物の空を飛ぶ。 そして、——堕ちる。 磁場とは存在の永遠性を象徴するものである。 磁場に起源はない。 磁場は宇宙の生成と消滅において、一つの呼吸を行っている。 ときに一卵性双生児のように振る舞い、ときに二卵性へと移る。 一卵期は人間と呼ばれる。ニ卵期はヒトである。 いや、言い直そう。 一卵期は魚と呼ばれ、二卵期はノンモと称される。 まもなく、モノポールの双子が旧い精神の解体に取りかかることだろう。 新しい生成の扉の前に立つあのヤヌス神を思い出すこと——。 時間とは分裂を余儀なくされた精神の叫びである。 それは生成から見ると、プラズマのように錯乱して動いている。 他者の眼差しにさらされた存在の空虚な穴、それが肉体だとすれば、 時間は肉体とともにある。 肉体が消えれば時間は消える。 当たり前の話だ。 前進あるのみ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4 • Tags: アストラル, エーテル, 神秘学, 表相
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ヌースコーポレーション
半田広宣(ハンダコウセン)
著書 「奥行きの子どもたち」「人類が神を見る日」「光の箱舟」他
2月 8 2006
さよなら、カフェネプ。
ヌース理論サイトの掲示板「カフェネプチューン」を閉鎖することに決めた。
いろいろな感慨もあって、シリウスファイルの第1ページに数年ぶりに目を通す。
わたしも少しは成長したのかもしれない。
書かれていることが手に取るように分かる。。。
狂人による走り書きとして読んでいただければよい。
——シリウスファイル19891122雑感
地球とは精神の源泉である。
精神とは実のところ、幾何学における点の振る舞いなのだ。
いかにしてこのような理念的存在は規定されるのか。
それはおそらく現代物理学の最先端の中で露わにされ始めている。
ペンローズが語るツイスター。。。
S^7/S^3→S^4→R3.1。。。
7次元球面の中で同一視されたS^3。
おそらく、これが点のイデアの正体である。
点が模像を作り上げ、その模像がまたイデアへと回帰する。
精神にはそうした王位継承の密儀が存在する。
ペンローズの理論の本質はそこにある。
人間の個体とは、そこから散種された精神のつぶてである。
人間とは——
交差するものに与えられる位置。
そこに精神の種子は植えられる。
交差するものとは感性と思形——。
思形が時空の広がりとして、ローレンツ群を用意し、
感性が主体の多様体としてのSU(2)を用意する。
これは神秘学的に言えばエーテル体とアストラル体の別名である。
両者は個体存在の父と母となる。
コンパクト化されたものとされていないもの。
母は卵子のように「一」に凝縮し、父は精子のように「多」に拡散する。
こうして主体的強度の場と客体的延長の場が、末端性器のために用意されることになる。
意味と言語の拮抗、そして、すべての経済活動も、こうした幾何学体の上で運動しているのだ。
交差するものに与えられる位置——。
天使が地上から消えた後、
表相の等化により精神は形質へと変質する。
光が実存から分たれる位置が生まれるのだ。
ここから点=精神は個体に精神の射影としての幾何学を用意する。
デカルトやニュートンはその先駆的使い手であった。
本来は外部を覆うはずだったものの内部への陥入。
僕らの水の受難と洗礼が此処に始まった。
バロック的反転による精神の見事な裏返り。
マヤの撤退。
オゴの侵入。
オイディプスの悲劇。
ナルシスの哀愁。
葦舟の上で泣き叫ぶ水子。。。
すべてが嘘で塗り固められていく。
こうして、地球はやせ細った夢遊病者のようなコギトたちの王国となる。
コギトとは精神の倒錯によって生まれた「悩める者」である。
モノのケの囚われの身となった「病める者」である。
彼は偽物の翼を広げ、
偽物の空を飛ぶ。
そして、——堕ちる。
磁場とは存在の永遠性を象徴するものである。
磁場に起源はない。
磁場は宇宙の生成と消滅において、一つの呼吸を行っている。
ときに一卵性双生児のように振る舞い、ときに二卵性へと移る。
一卵期は人間と呼ばれる。ニ卵期はヒトである。
いや、言い直そう。
一卵期は魚と呼ばれ、二卵期はノンモと称される。
まもなく、モノポールの双子が旧い精神の解体に取りかかることだろう。
新しい生成の扉の前に立つあのヤヌス神を思い出すこと——。
時間とは分裂を余儀なくされた精神の叫びである。
それは生成から見ると、プラズマのように錯乱して動いている。
他者の眼差しにさらされた存在の空虚な穴、それが肉体だとすれば、
時間は肉体とともにある。
肉体が消えれば時間は消える。
当たり前の話だ。
前進あるのみ。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 4 • Tags: アストラル, エーテル, 神秘学, 表相