4月 15 2016
東京ヌースアトリウム第2回、無事終了しました
日曜日のレクチャーはたくさんの人に集まっていただき、ほんとうにありがとうございました。ホンマ、亀の歩みがごときではありますが、ヌース的レジスタンスを多くの人たちと共有できていければな、と思っています。
レジスタンスと言っても、ヌーソロジーの場合は現行の政治システムや経済システムに反旗を翻すことを言うのじゃないよ。他者ではなく、自己意識の在り方自体に真っ向から対抗する思考形態を育てていくことを言うんだよね。いわば、内在野におけるバトルだね。反転認識の達成とはそういうもの。
幅認識から奥行き認識へ。流れる時間認識から流れない時間認識へ。こうした認識のもとに立ち上がってくる異質な空間風景を地道に描写していくことによって、物質空間を精神空間に塗り替え、存在世界を今までとは全く違う言語体系で語れる能力を養っていくところにヌーソロジーの醍醐味はあるんだよね。
今回のレクチャーでも、そろそろその辺りを強調せんといかんなと思って、ヌーソロジーの次元観について詳しく話しました。
普通、空間の「次元」というと、僕らは線分の直交性で思い描いてしまうよね。たとえば、線は1次元、面は2次元、立体は3次元とか思い描いてしまうんだけど、「そういったものは次元とは呼ばんよ。次元が全く見えていない認識の次元観にすぎない!!」と断言しました(笑)
じゃあ、ほんとの次元観はどういうものであるべきかというと、「それは、層状にかたちを持つ」と説明しました。「層」というのは同心球のイメージだね。球空間が多重に折り重なって層を作っている。たとえば、太陽系軌道とか原子の電子軌道なんかをイメージするといいよ。それらは現象世界に多重な「層」として現れているでしょ。
こうした層は、延長認識では、それぞれ長さの違った半径を持つ球空間ということで片付けられちゃう。つまり、3次元空間の広がりの中で認識は躊躇することなくこの層をスーッと通り抜けて行っちゃってるんだね。この通り抜けが人間の現在の空間認識には次元が全く見えていないことを端的に物語っていると思っていいよ。
何でこんな粗雑な空間認識になってしまっているかというと、見ている自分の眼差しを宇宙の中に入れていないからなんだ。観測者を特権的な位置に仕立て上げて外部の空間を見てしまっている。だから、本来、精神そのものとして働いている空間の本質に思考が触れることができないでいるんだ。
「層」としての次元というのは精神が作り出しているので、幅に依拠した延長認識では絶対に認識できない。要は、奥行きに依拠した持続空間が見えてこないと本当の次元を認識することは無理なんだよね。つまり、真の意味での次元とは奥行きの空間=持続空間が作っているってことなの。
数学の世界ではn次元の多様体が語られるにもかかわらず、人間が意識する空間が3次元で打ち止めになっているのも、空間を幅で見ているからなんだよね。ほんとうの空間は無限次元と言っていいような奥深さを持ったものなんだ。それは精神の無限性、すなわち霊的無限を意味している。
今回のレクチャーではプラトン立体とは何かを説明していくにあたって、この持続空間で生じている最も基本的な四つの「層」について説明した。とりあえず下に挙げとくから、ヒマな人はこの四つの空間の違いについてじっくりと考えてみてね。
●本当の次元を作っている最初の四つの球空間の層(下図参照)
1.一つの物体の内部の空間・・・点球次元
2.一つの物体の周囲の空間・・・垂子次元
3.一人の人間の周囲の空間・・・垂質次元
4.無数の人間の周囲の空間・・・球精神次元
―― 点球、垂子、垂質、球精神はそれぞれヌース用語
今の僕らは、これらの空間をすべて3次元空間で片付けてしまう。そうした見方がいかに野蛮で暴力的か。延長意識というのはホント、無節操で、存在の襞の感受性をマヒさせる催眠術のようなものなんだよね。
4月 19 2016
ナルキッソスとエコーのスピンオフ
言葉を受け取るとそこにはイメージが浮かぶ。一方、イメージが浮かぶとそこには名付けの衝動が起こる。水星の少年と金星の少女の間に繰り広げられるエロス的関係がここにはある。この恋愛体は人が生きることの中でシーソーゲームのように延々と反復しているが、一体、二人は何を望んでいるのか?
言葉とイメージの反復を裏で操っているのは、言うまでもなくこの両者の間にあるズレだ。このズレは他者と自己の間にあるズレと言い換えてもいい。というのも、他者は言葉としてやって来るものだし、一方の自己はいつも知覚と共に居るからだ。
他者と自己の間にあるこのズレによって、水星の少年と金星の少女の間に生まれている恋愛体は時に抗争体ともなり、数え切れない喜怒哀楽を人間たちの中に送り出してきた。
このズレの正体とは一体何か?ということについて、現代の思想家たちの結論は概ね一つにまとまっている。それは、僕らが「意味」と呼んでいるものだ。でも「意味」って何だ?
意味について考え出すと一気につかみどころのない感覚に襲われる。意味を言葉で表現しようとしても、結局のところ、言葉の中をグルグルと堂々巡りするだけだ。
「意味の意味とは存在である」と言ったのは確かハイデガーだったか。これが正しいとすれば、存在は言葉とイメージの間に埋もれているということになる。同じく、他者と自己の間にも。
そこで、また象徴的思考が訴えかけてくるわけだ。水星の少年と金星の少女の間に身を潜めているものは二人の亡き父と母に当たるものに違いない。そして、それは地球と月だぞって。そして、おそらく、このときの地球と月とは精神と物質と言い換えてもよい。
水星の少年が月を見つけ、金星の少女が地球に戻るとき、意味は存在へと生まれ変わり、そこに太陽が顔を出すことだろう。
アバウトだが、水星の公転周期と月の公転周期の比は円周率π、金星の公転周期と地球の公転周期の比は黄金比Φ、という関係がある。
これは言語は物質に円周率として関わり、知覚は精神に黄金比として関わっているということを暗示している。
意味の内部には円周率と黄金比に満たされた存在のめくるめく無限がある。
この二つが共同しあって生み出すものが黄金螺旋なのだ。
取り留めのない書き込みで申し訳ない。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 1 • Tags: ハイデガー, 円周率, 黄金比