3月 1 2017
「NC-cube」の製作、順調に進行中
この春にヌーソロジーの素粒子解釈を通して作ったデバイスをヌースアカデメイアからリリースしようと思っている。デバイス名は「NC-cube(エヌシー・キューブ)」。下図がそのイメージイラスト。―「NC」はNOOS CONSTRUCTIONの略。
一見、巷によく見られる波動機器のようにも見えるのだけど、ヌーソロジーという意識の空間理論から製作したブツという意味では、その内実はたぶんかなり違ったものになってくるのではないかと思う。このデバイスの主な機能は「空間のフィールド化」。
「フィールド化」とは幅認識の空間から奥行き認識の空間へと空間自体を変えていくことの意。ここで言ってるフィールド化のフィールドというのは量子空間の意味だと考えてもらって構わない。つまり、空間を虚空間化させていくということ。
時間と空間の世界をフィールド化するわけだから、この装置は世界の終わりと始まりをつなぐ工学機器とも言えるし、物質と精神の垣根を解体したところで考案された新手の機械とも言える。言い換えるなら、空間認識の幾何学と量子場の幾何学の共鳴を目的としたテクノロジー。
一体どうやって、そんなことを行うのか――と怪訝に思うかもしれないけど、仕組み自体はそんなに複雑なものじゃない。ということで、このデバイスの製作コンセプトについて少しだけ。
NC-cubeのメカニズム自体はヌーソロジーに登場する幾何構造(ヘキサチューブル)をベースにした立体回路に微弱な電流を流すというシンプルなもの。
ヌーソロジーの文脈では、電子とは人間の無意識の主体を統括している精神体のようなものとして解釈される(理由についてはヌーソロジーを学んで下さい)。その意味で人間の意識活動のすべてを裏で支えているのは電子だということになる。
今の電気文明は電子によって支えられていると言っても過言じゃないよね。ヌーソロジーの世界観だと、電子を使った現行の科学技術は電子を反エーテル的に使用している。反エーテル的使用とは電子を時空内の物理的対象に見立て、それを操作、制御しているということ。
一方で、電子をエーテル的に使用する技術というものがある。電子のエーテル的使用とは物質化した電子の力を本来のエーテル力としてエーテル空間そのものの中で利用するという意味だ。この力を引っぱり出してくるためには、電子を点状の粒子的なものと見なすのではなく、電子に電子自身が持った自分のカタチの記憶を想起させる必要がある。NC-cubeの立体回路はそのカタチを象っていると思ってもらえばいい(付属のトレイパットというヤツも使うのだけどここでは省略)。そして、電子が人間の無意識の主体を統括している精神体であるなら、このことは人間の意識が自分自身の自我構造に空間的に感応していくこととリンクしている。
一言で言うなら、鏡像化した空間の中で粒子化してしまっている電子に、電子本来の空間構造を与え、人間の無意識を等化するための力へと変えていくこと。これがNC-cube製作の基本コンセプトということになる。
使用方法は普通の波動機器のように使ってもらえばいいと思うけど、たぶん、一味も二味も違ったものになってくるのではないかと思ってる。そのへんは、リリース後のお楽しみ、ということで。
この「NC-cube」のプロジェクトは第二、第三弾がすでに頭の中にある。一つ一つ着実にこの世界の中に表現していければと思っている。
3月 6 2017
シュタイナーとのコラボで分かったことの一つとして
延長空間の中で局所的に固定されている物質的身体と、持続空間の中で比局所的に遍在している精神的身体。精神的身体の方は単に自己領域のみにとどまらず、他者領域にまでその持続性を拡大させている。これら両者の相互関係の中に一般にわたしたちが「意識」と呼ぶものの構成が組織化されている。
物理学が局所的ゲージ対称性と呼ぶものの本質はこの組織化のことである。局所的の局所は時空的位置、ゲージ対称性は大局的対称性の場合、非局所的な内部空間における回転対称性のことをいう。両者をつなぐ働きをしているのがボゾンではないかと思われる。分かりやすく言うなら、このボゾンが「ここにいながら、あの日のあそこのことを想える」わたしたち人間の意識の様々な営みを支えているのだ。
今回、シュタイナーとのコラボ本の中の作業で、シュタイナーのいう物質体・エーテル体・アストラル体・自我の構成と素粒子のゲージ対称性との比較を丁寧に行っていったのだが、感覚魂・悟性魂・意識魂というシュタイナーの霊学的な概念を組み合わせると、両者の構造が実はほとんど同じような構成秩序で出来ているということが分かった。
この比較の中で特筆すべきことは、シュタイナーのいう感覚魂と悟性魂のもとになる力が実はわたしたちが空間と時間と呼んでいるものに対応してくるということだ。これは極めて重要な内容だと感じている。何が言いたいかというと、わたしたちが空間と時間と呼んでいるものは「本来、内在的なものだ」ということ。
それを外在としてしか見れていないところに人間の世界に対する認識の転倒のすべてがある。哲学の言葉でいうなら、自分自身の内在性から客観という超越に至るルートが見えていないのだ。哲学が未だに素朴実在論を喝破できていない理由もここにある。
外在世界などといった外の世界など本当は存在していない。祖先以前性を客観的な事実として前提にしている科学が持った素朴実在論の世界像はそのほとんどが幻想にすぎない。
人類の起源、進化論、生命の起源、太陽系の起源、物質の起源etc。これらは外在の物質世界に求められる問題ではなく、人間の内在性から明らかにされていかなくてはならない問題だ。
幅の空間認識から、奥行きの空間認識への移行を果たした知性は、これらの謎を物心一体の世界観のもとに鮮やかに解き明かしていくことになるだろう。
シュタイナー的にいうなら、意識魂の目覚めがもうすぐそこまで来ているということ。空間がエーテル空間へと反転し、空間自体が精神と化していく時代がまもなくやってくると思う。
By kohsen • 01_ヌーソロジー, シュタイナー関連 • 0 • Tags: ボゾン