ケイブコンパスとヘキサチューブル

ケイブコンパスとヘキサチューブルはどちらも観察子の発展性を表したものだ。ケイブコンパスの方は観察子における各次元がどのような絡み合いを持っているか、その関係性に焦点を当てたモデルになっていて、一方、ヘキサチューブルの方は「次元」がわたしたちが知覚する実際の空間上で、どのような構成で息づいているのかを表現したモデルになっている。
 
その意味で、ヘキサチューブルの方は持続空間(精神)がどのようにして物質として射影を持ってくるのかがよく分かるモデルになっている(物質という存在形態はすべて4次元からの持続空間の射影になっているということ)。
 
ヌーソロジーでは「次元」は重層的に構成されていくと考えるので、基本的には4次元までしか存在しない。ここでいう4次元とは、四つの次元階層といった程度の意味だが、これは、面白いことに実ユークリッド4次元とも深い関係を持っている。
 
通常の次元概念は5次元、6次元………n次元というように、無限に加算されていくのだが、ヌーソロジーの次元描像において4次元より高次の空間は、すべて4次元への重畳性として現れてくる。
 
ヘキサチューブルで言うなら、ψ7~8、ψ9~10、ψ11~12、ψ13~14は、それぞれがそのままψ1~2、ψ3~4、ψ5~6、ψ7~8へと重なって投影されてくるということだ。さらに、ψ7~8はψ1~2へと凝縮化してもいるので、結果的に、精神を構成しているすべての次元はψ1~2の中に入り込むような構成になる。で、このψ1~2をわたしたちは一括りに物質と呼んでいるわけだ。
 
つまり、精神の働きである等化運動の方は、基本となる4段階の次元の階層性を絶えず己自身の内部に包摂しながら、このヘキサチューブルの構造の中を反復していくのだが、付帯質の働きである中和の方は次元が全く見えないために、その精神の全体運動を最初のψ1~2の中に見ることを余儀なくされる。そこですべてを見ようとしているのが唯物論的な科学主義だと考えるといい。
 
物質と精神の対称性を見出していく上で、付帯質(中和の力)と精神(等化の力)が持ったこのコントラストはとても重要な対比感覚になってくる。
 
これは精神の自己表現システムと呼んでいいものだが、このように、表現するもの(精神)と表現されたもの(物質)の関係を結ぶ「次元」構造が朧げながら見えてくると、「付帯質的統制」という言葉の意味もハッキリしてくる。つまり、付帯質的統制とは総体の外面とその反映の中で世界を閉ざすことなのだ。
 
そして、この統制者こそが「全体化」への誘惑を常に与えてこようとする一神教の精神と言っていい。反映の最終構成においては、総体の外面は新たに総体の内面の方向へと開かれていく。

ケイブコンパスとヘキサチューブル