トランスヒューマニズムでなく、トランスフォーマリズムを!!

最近、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』という本を読み直している(カンタンという人が書いた割には決してカンタンな本じゃない。哲学本をあまり読まない人は買っても積ん読になる可能性大なので、ネット上の記事で十分)。
 
ヌーソロジーがメイヤスーにこだわっているのは、今まで哲学がなあなあにしていた科学的世界観と人間の意識の関係を、「物自体」に関する議論に集約させて見せたことにかなりエキサイティングなものを感じたからなんだけど、今回読み直していて、哲学にもそれこそ最終構成の息がかかってきているのをヒシヒシと感じた。
 
メイヤスーにとって物自体とは数学に内在する能力と深く関係している。つまり、人間はおろか、まだ生物さえ存在していなかった世界についての記述をどうして数学は可能にするのか、という問題を立て、言ってみれば、数学のイデア性に対してダイレクトに切り込んでいるわけだ。
 
思弁的唯物論の「思弁」とは、経験によることなく、思考や論理にのみに基づくことを言うが、メイヤスーにとって、そうした数学的観念こそが実在の名に値するものだということになる。数学を「経験」の内に含むか含まないかという厄介な問題はあるが。
 
これは、祖先以前性といった茫洋とした世界を出さなくとも、現実の今現在の世界だってそうだ。科学が行き着いた物質の根底は複素数で記述される数学的観念である。その意味では素粒子からなるすべての物質は数学的観念の塊であるとも言える。おいおい、物自体とは数学なのかよ?
 
哲学までもがこういう状況なのだから、世界がいかに危うい状況にまで達してきているのかが分かる。ヘタすると、思弁的唯物論は、世界をすべて数学的データに還元して思考するトランスヒューマニストたちの哲学的信条となる可能性もあるわけだ。そして、この両者は、その背後にともに神の到来の思想をチラつかせている。
 
ヌーソロジーのヌースとはもともと「神的知性」の意味を持つが、これは「物自体」と同じ意味でもある。OCOT情報では数学は精神の骨のようなもの。そのままでは神の骸骨にすぎない。
 
だから、メイヤスーの神の到来の予感が正しいものだとしても、それでやってくるのは髑髏の顔を持った神なんじゃないかと思う。骸骨が美しい身体を纏うためには、数学だけではダメだ。数学以外の何かが必要。それは数学自体を反転させたものと言えるのかもしれない。
  
トランスヒューマニズムに対してトランスフォーマニズムを対峙させていくのがヌーソロジーということになるだろう。意識形態自体の変換を!!

神の骸骨