メタアースで送る非日常的な日常

存在の鋳型というものがあるのなら、それは〈行って-帰る〉ことにあると言えるだろう。この〈行って-帰る〉はフラクタルである。陽子が行くことなら、中性子は帰ること。男が行くことなら、女は帰ること。君が行くことなら、私は帰ること。私たちは未だ行くことさえも知らない。
OCOT情報が「次元の交替化」と呼んでいるものも、この〈行って-帰る〉という存在に内在する運動のことだ。他者存在と自己存在の間で常に行き交う存在の血流のことと言ってもいい。そこでは行くことは帰ることでもあり、かつ、帰ることは行くことでもある。
このような〈行って-帰る〉ことを経験した意識の前に出現してくるもの。それをOCOT情報は「真実の地球」と呼んでいる。別名オリオン星。オリオン星などと言ってしまうと、どうしようもなく胡散臭さが漂うものだが、OCOTの口から出ると、何やら詩的に聞こえる(笑)
この〈行って-帰る〉プロセスを知らないものが「地球」であり、そこに生きる人間という存在だと考えよう。「嘘の地球」と言っていいかもしれない。中身のない地球。空っぽの地球。未だに地球化していない地球。それは地球を単なる物質としてしか見ず、精神化させられていない現在の人間のことでもある。
地球をこの「真実の地球」へと精神化させていくために働いているのが太陽系のようだ。太陽系はその意味で、地球に始まって地球に終わる。そこに大系観察子というヒトの意識構造が働いている。「宇宙には太陽系しかない」というのも、太陽系が存在の内部構造を受け持つ諸器官のようなものだからだろう。
じゃあ、太陽系外部の恒星って何よ?という話になるのだが、OCOT情報では、それはさっきの言い方をするなら行って帰ってくるものたちの意識の痕跡に当たるらしく、「ヒトの性質」という言い方をしている。これが人間における無数の自己意識を支えているという。太陽が行きなら恒星は帰りだということ。
そして、このような恒星の集まりである銀河系は「真実の地球」の反映のようなものだと言っている。地球という大地の内なる精神を支えているのは実は銀河系なのだと。つまり、存在の秩序の中で、この幅の空間の中に反転して表現されているわけだ。
シュタイナーとタメを張るような壮大な宇宙像に目眩がする思いだが、こうした超絶的な言明の背後にある存在のリアルを執拗に追い求めることが自分の日常になっているという・・・生きててよかった(笑)

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