ヌーソロジーにおける思考のイメージ

思考において「どこで思考しているか」という問題を立てることはとても重要だ。その場所が狭ければ、思考は必然的に狭小になるし、その場所が広ければ広いほどダイナミックな思考の可能性が開く。もちろんこれは物理的な場所のことを言ってるわけじゃない。思考が活動する異空間について言っている。

だから思考が脳で行われているなんて絶対に考えちゃいけない。その時点で、思考は最も貧しいものへと萎縮し、思考本来が持った存在の生殖力を喪失してしまう。では、思考がどこで行われていると思考することが一番望ましいのだろうか。

ヌーソロジーの場合は、ブーバーが根元語と呼ぶ「我-汝」の場所をいつもイメージしながら思考している。ブーバーは、根元語には「我-汝」と「我-それ」という二つのタイプがあり、人間はこの二つの根元語のもとに二重に生きているという。
ブーバーのいうこの根元語というのは決して存在するものを名指ししているわけではない。根元語が語られるときは存在そのものの在り方がそこに引き起こされるという。だから、この根元語は存在の最初の発語とも言えるものであり、君自身の思考の出自、ベクトルがそこで決定づけられるような重要なものだ。

「我-汝」と「我-それ」。このように、根元語においては「我」が二重化している。語りにおいては、常に、二つの「我」の在り方があるということだ。そのことを忘れないようにしないといけない。「我」は常に二重人格なのだ。
だから、「我」が何かを語るとき、そこには必然的に「汝」か「それ」のどちらが隠されている。思考にしても同じだ。「我」が思考するとき、そこには「それ」か「汝」のどちらかが常に寄り添っている。

しかし、「汝」が寄り添うことは稀だ。「我」が他者について考えるというのは本当に難しい。そういう他者とは「それ」でしかないし、たとえ共同体について思考しようが、愛について思考しようが、霊性について思考しようが、それらはすべて「我-それ」に支配された場所でしかない。
ブーバーのいう根元語「我-汝」の場所で思考することはそれほど難しい。というのも、彼がいう「我-汝」とは永遠の我と永遠の汝の関係のことだからだ。この場所において思考するときに初めて、思考は能動的なものとなる。

永遠の我の場所がやってこなければ、永遠の汝もやってこない。
一つの永遠からもう一つの永遠まで。その距離を歩くのがほんとうの思考というものだと思っている。
観察子の開示とはその歩行である。