わたしという声

素粒子という存在は、まるで静謐な庭園の中に佇む石灯籠のようだ。夜の闇の中で、その灯火は一つの光源として存在し、周囲を静寂の音で満たす。
しかし、この闇のなかで、わたしが何かを見ようと目を凝らすなら、そこには無数の光点が広がり、幻想的な景色を生み出す。素粒子の内部では、すべてが一つの存在へと還元されているのだが、時空の中ではその一つが無限に分身を生むように見えてしまうのだ。

それゆえ、わたしたちが物質と呼ぶものは、精神の一瞬の煌めきのようなものだ。素粒子は無数の時空としてあちこちに現れ出ては、己自身を無限の出来事の可能性の場へと転じさせている。しかし、繰り返し言うが、すべては一つの同じものからの派生なのだ。
その意味では、この世界はまるで一つの詩のようでもある。言葉の一つ一つ、音韻の一つ一つがたとえ独立して存在するように見えても、すべての言葉は一つの詩の中で統合されている。

ヌーソロジーの視点から見れば、わたしたちの認識する現実も同様に、一人の詩人の朗読の中を流れゆく音韻の一つであり、わたしという存在もまたその一節を謳う声の一つである。
ジピのイラストが今ひとつ………。