「精神の位置」 という概念がもたらすもの

ヌーソロジーはかつてないほど直球ストレートで「自己とは何か」について語っているのだけど、多くの人が幅世界の歴史の中で語られてきた「内在」に関する大量の情報にがんじがらめにされてしまっていて、シンプルに自分と空間の関係を見れなくなっている。自己=ミクロが通じないのもそのためだろう。

自己=ミクロ。つまり、ミクロとしての精神の位置。マクロに宇宙を見ている現在の人間は、その意味で精神の位置を見失っている。OCOT情報が「いまだ人間には位置がない」と言ってるのもその意味だ。

確かに、今の私たちには「物質の位置」という概念はあっても、「精神の位置」という概念はない。自分自身の持続が位置概念として空間に定位されていない。

意識を構造として思考していくためには、持続を位置として概念化させる必要があり、当然、それは時空の”外の思考”を芽生えさせてくる。その思考感覚がやがては、従来の時空内部での思考様式を相対化させ、人間の存在感覚を高次へと拡張していく。その意味でも「位置」の発覚はデカいように思う。

自分で言うのもなんだが、「精神の位置」という概念の何が画期的かというと、「物質進化の過程の一体どこで意識が生まれるのか」という科学者が立てるような問題を一蹴するところだ。ここで、物質を人工ニューロンのようなプログラムに置き換えても構わない。元々、次元が違うのである。

つまりは、精神の起源などは問えないということ。そういう割り切りが必要だということ。こうした割り切りの中では、むしろ、精神がどのようにして物質を自らの内部に表現したのか、という問いの方が正しい問い立てになってくる。

要は精神宇宙が先、物質宇宙は結果だということ。精神の位置が見出されると、今の私たちとは全く逆方向に存在する世界について、思考を立てていくことができるようになってくるということだ。

そして、そうした精神宇宙の始まりが、現在、科学が素粒子と呼んでいるものの即自に当たる私たち人間の無意識だ、というのがヌーソロジーの主張だ。物質宇宙と精神宇宙の関係をまるまる反転させて見ているわけである。そういう思考法を作りましょうよ、と。

下図は名古屋大学理学部 大学院 理学研究科/多元数理科学研究科 のHPより借用

精神の位置