主観空間の正体について

あなたの「見る」という行為は、
本当はあなたの意志ではなく、
空間そのものがあなたに“見る位置”を与えている結果にすぎない。
そう考えたとき、
空間とは「外界の拡がり」ではなく、
「私であることの場所」そのものとなる。
主観空間とは、“私が見ている空間”ではない。
それは、“私という存在が形を取るための、見えない舞台装置”である。
それがわかったとき、
私たちは初めて、
「自己がどこから生まれているか」に触れはじめるのだ。
私は生まれてこの方、一歩も動いたことはない。
どうか、この表現が何を意味しているのか、しっかりと考えてほしい。

「動かない私が、すべてを動かしている」

なぜ私は、
どこへ行こうが、
何を見ようが、
“私”でいられるのか?
それは、
私が——
一歩も動いていないからだ。
身体は動く。
視界は変わる。
時間は流れる。
けれど、
そのすべての運動を、
私の内なる何かが、正確に“相殺”している。
私は、
動きながら、動いていない。
世界は、動きながら、私を不動のままにしている。
この逆写しの運動。
この、空間の中心でただ不動を守り続ける力。
それこそが、
「私が私である」ことを保証している。
それは、存在に打ち込まれた、
自己という名の楔(くさび)と言ってもいいものだ。

そして・・・
その逆写しの運動の正体こそが、
物理学が「ゲージ対称性」と呼んでいたものだった。
——それが見えたとき、
私は、文字通り、空間の中に溶け入った。