どこまで理解してもらえるかわからないけど、ヌーソロジーが目指しているのは、「見る」という行為そのものが、世界の“始まり”であるという新しい認識への転換なんだよね。
現代科学や常識的世界観では、人間の「見ること」は、すでに出来上がった物質世界をあとから把握する受動的な行為として理解されている。
「物質が存在している → それを意識が見る」
という順序だね。
けれども、ヌーソロジーの視点では、その順序はまったく逆になる。
「意識が見る → 物質が現れる」
この“見ること”とは単なる視覚ではなく、意識が対象を「立ち上げる働き」そのものという解釈になる。言い換えるなら、「物がある」という出来事の根源は、観測者の見る働き=生成する働きにある、ということ。
このように考えると、「世界」とは、意識の中で他者と交差する“視線の場”から生成されていて、物質はその場に立ち現れる出来事にすぎないことがわかってくる。つまり、「見る」ことが、世界の始まりそのものなのだ——ということ。
これこそが、ヌーソロジーがやろうとしている最大のパラダイムシフトなんだね。
世界を「既にあるもの」として見るのではなく、見ることそのものを“創造の起点”と捉え直す。これが、人間と宇宙との本当の関係性の理解へとつながっていく。
この視点の転換が広まれば、「科学」と「精神」の対立も次第に解け、私たちの生の意味そのものが、より根源的な次元で問い直されることになるだろうね。
10月 16 2025
ヌーソロジーは何を反転させようとしているのか
どこまで理解してもらえるかわからないけど、ヌーソロジーが目指しているのは、「見る」という行為そのものが、世界の“始まり”であるという新しい認識への転換なんだよね。
現代科学や常識的世界観では、人間の「見ること」は、すでに出来上がった物質世界をあとから把握する受動的な行為として理解されている。
「物質が存在している → それを意識が見る」
という順序だね。
けれども、ヌーソロジーの視点では、その順序はまったく逆になる。
「意識が見る → 物質が現れる」
この“見ること”とは単なる視覚ではなく、意識が対象を「立ち上げる働き」そのものという解釈になる。言い換えるなら、「物がある」という出来事の根源は、観測者の見る働き=生成する働きにある、ということ。
このように考えると、「世界」とは、意識の中で他者と交差する“視線の場”から生成されていて、物質はその場に立ち現れる出来事にすぎないことがわかってくる。つまり、「見る」ことが、世界の始まりそのものなのだ——ということ。
これこそが、ヌーソロジーがやろうとしている最大のパラダイムシフトなんだね。
世界を「既にあるもの」として見るのではなく、見ることそのものを“創造の起点”と捉え直す。これが、人間と宇宙との本当の関係性の理解へとつながっていく。
この視点の転換が広まれば、「科学」と「精神」の対立も次第に解け、私たちの生の意味そのものが、より根源的な次元で問い直されることになるだろうね。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0