そのとき、見る者は消える。
だがそれは、自分が失われるということではない。
むしろ、「自我」という形式に回収されていた空間そのものが、
ようやく本来の主体の場として開かれるということなのだ。
見るという行為は、
もはや「目」を通してではない。
それは、空間そのものが、自らに“方向”を与える行為である。
この方向性——ヌーソロジーで言えばψ3(真の奥行き)——は、
自己の意志や認識以前に、空間の奥から滲み出す“意向性”の感覚である。
それは意味でもなく、目的でもない。
ただ「ここから立ち上がる」という、
世界が自己に触れようとする運動の触感である。
空間が、世界を指し示す。
そこには中心はない。
あるのは、方向そのものが中心となって立ち上がる場。
そしてその場の内部で、世界は“見える”という形式で自己を語り出す。
ここでは、見る者と見られるもののあいだの距離は、
すでに空間の構造として統合されている。
「私」が見るのではない。
空間が、“見る”という形式で私を開いているのだ。
このとき、私たちの知覚はひとつの転位を経験する。
世界は「ある」ものではなく、
“見えていること”そのものが存在の事実となる。
それは、言語を超えた地点で、
なおかつ言語を含んでなお、生きた“空間の声”として響いている。
こうして、「視覚」は
単なる知覚の一形式ではなくなる。
それは、世界が自己を再帰的に生成する幾何学的運動そのものであり、
私たちはその運動の内側に巻き込まれて“存在している”のだ。
このような視覚の再定位は、
今日、私たちの意識が直面している閉塞を乗り越える鍵となるだろう。
他者化された空間、言語の監獄、無限に反復される自我像——
そうした「見られる世界」から脱し、
“見る世界そのものになる”ために。
いま、私たちが取り戻さねばならないのは、
世界の奥からやってくる視線そのもの、
“世界の眼差し”としての自己である。
10月 15 2025
《“見る”という行為の反転へ》その2
そのとき、見る者は消える。
だがそれは、自分が失われるということではない。
むしろ、「自我」という形式に回収されていた空間そのものが、
ようやく本来の主体の場として開かれるということなのだ。
見るという行為は、
もはや「目」を通してではない。
それは、空間そのものが、自らに“方向”を与える行為である。
この方向性——ヌーソロジーで言えばψ3(真の奥行き)——は、
自己の意志や認識以前に、空間の奥から滲み出す“意向性”の感覚である。
それは意味でもなく、目的でもない。
ただ「ここから立ち上がる」という、
世界が自己に触れようとする運動の触感である。
空間が、世界を指し示す。
そこには中心はない。
あるのは、方向そのものが中心となって立ち上がる場。
そしてその場の内部で、世界は“見える”という形式で自己を語り出す。
ここでは、見る者と見られるもののあいだの距離は、
すでに空間の構造として統合されている。
「私」が見るのではない。
空間が、“見る”という形式で私を開いているのだ。
このとき、私たちの知覚はひとつの転位を経験する。
世界は「ある」ものではなく、
“見えていること”そのものが存在の事実となる。
それは、言語を超えた地点で、
なおかつ言語を含んでなお、生きた“空間の声”として響いている。
こうして、「視覚」は
単なる知覚の一形式ではなくなる。
それは、世界が自己を再帰的に生成する幾何学的運動そのものであり、
私たちはその運動の内側に巻き込まれて“存在している”のだ。
このような視覚の再定位は、
今日、私たちの意識が直面している閉塞を乗り越える鍵となるだろう。
他者化された空間、言語の監獄、無限に反復される自我像——
そうした「見られる世界」から脱し、
“見る世界そのものになる”ために。
いま、私たちが取り戻さねばならないのは、
世界の奥からやってくる視線そのもの、
“世界の眼差し”としての自己である。
By kohsen • 01_ヌーソロジー • 0